訪問日 (2021/10/24)
昨年秋に安芸川尻駅に行ったついでに、野呂山山頂に行ってたので、その時の写真をアップ。川尻駅横の日本一短いトンネルの上を通って、野呂山公園線(ずっと昔は有料の観光道路でした)を登って山頂へ。
下は途中の展望台から見た川尻の街と蒲刈、大崎諸島。雲のせいで四国まで見えたかどうかは、はっきりせず。
野呂山は昔、海山だったせいで山頂が高原上に平らになっていて、山頂からの見通しはあまりよく無く、展望台は歩道を登った先の弘法寺境内とかになります。なので瀬戸内の景色を見るのであれば、途中の展望台から見るのがお薦め。
で、平らな山頂には氷池という池があって、その池畔にあるレストハウス。かつて野呂山で天然氷製造があったというけど、ここの池だったのか?
レストハウスには野呂山縁起が掲示されていたので、その書き起こしです。
野呂山年表 川尻町の概要(資料編)
730(天平2)年 野呂山麓に堂宇を建て禅を修する僧侶がいた。
812(弘仁3)年 弘法大師空海が野呂山に登り参籠した。
1205(元久2)年 野呂山伊音城弘法寺に高野山法師が石灯篭一基を奉献した。
1609(慶長14)年 3月21日野呂山弘法寺開帳。当時石仏高さ約1m。世人「靭石」という。
1727(享保12)年 野呂山弘法寺再建。
1753(宝暦3)年 野呂山弘法寺の梵鐘鋳替え、鐘堂庫裡建築(現在の梵鐘銘宝暦4年3月21日)
1798(寛政10)年 野呂山弘法寺再建。
1804(文化元)年 野呂山に猪鹿多く山麓の田畑に被害続出防除のの鹿柴と呼ばれる防壁を築く(内平村)
1819(文政2)年 野呂山中に怪物が現れ和七と新平、三吉、兵四郎など怪物を見て逃げかえる。和七は遂に発病して死ぬ。仁方の人「山笑う」
1828(文政11)年 広島藩、野呂山開拓を論じ村民と協議す。
1829(文政12)年 割庄屋宮尾彦次郎(阿賀)佐々木雄平(下黒瀬)の両氏、野呂山開拓の免許を出願し許可される。両氏及び広村庄屋五兵衛、川尻村庄屋小三郎 開拓の御用懸を仰付られる。総面積約334町4反7畝(各村郷原菅田川尻村広村)
1834(天保5)年 野呂山勧農坂の八幡神社が豊作を祈る開拓者たちによって建立される。
1835(天保6)年 野呂山開拓戸数200余戸が凶作と疫病流行のため32戸に減じた。
1851(嘉永4)年 宮尾彦次郎、佐々木雄平の両名野呂山開拓御用懸差免となる。
1860(万延元)年 この頃仁方の俳人、茶人たちが野呂山から茶碗土を採取、陶器と磁器の中間のものを造りはじめた。
1866(慶應)2年 この頃より野呂山開拓再興をはかる。
1871(明治4)年 野呂山開拓不成功におわり後国有林となり植林を行う。弘法寺の仁王門建立 金剛力士像二体を安置。
1883(明治16)年 かんす投げ付近より石地蔵を発掘。新弘法を建立してこれを祭る。
1889(明治22)年 野呂山で天然氷の製造をはじめる。
1902(明治35)年 新弘法寺火災にかかり再建。
1910(明治43)年 野呂山弘法寺堂宇修理鐘堂移築、境内拡張(この費用370余円)
1931(昭和6)年 昭和池の石堤(石碑)
1946(昭和21)年 野呂山に開拓団入植(71戸294人)
1950(昭和25)年 野呂山を瀬戸内海国立公園に指定。毎日新聞主催観光百選に野呂山入選。
1951(昭和26)年 野呂山開拓観光道路完成(延長10km)板休み公園に野呂山国立公園記念碑建立(藤田譛陽書)
1952(昭和27)年 野呂山観光ホテル竣工。野呂山氷池~弘法寺間の林間道完成。野呂山を大毎「観光と産業」映画に収録。
1953(昭和28)年 野呂山観光株式会社創立、野呂小唄できる。
1954(昭和29)年 中国新聞主催観光コンクールに野呂山第二位入選。
1956(昭和31)年 観光協会再発足。野呂観光株式会社を町が経営。
1961(昭和36)年 野呂山開拓団に電話開通、氷池拡張工事。
1962(昭和37)年 川尻小学校野呂分校鉄骨平屋建落成。野呂山道の一部約497m舗装完了。野呂山に電灯つく能か38ほか5戸。
1963(昭和38)年 野呂山開発陳情書を池田総理に手渡す 7月永野県知事一行野呂山視察。10月国立公園野呂山山系スカイライン期成同盟会が発足。野呂神社を現在地へ。
1964(昭和39)年 中國電話局野呂山上に無線中継所建設。
1965(昭和40)年 鉢巻山に桜苗木千本梅百本植樹。鈴木厚相宮沢国務小山建設各相および川野参議ら一行野呂山視察。
1968(昭和43)年 七月県営野呂山有料道路開通。野呂山簡易水道施設完成。野呂山レストハウス落成。国民宿舎野呂高原ロッジ落成。
1969(昭和44)年 野呂山セントラルロッジ着工。広島県植樹祭が野呂山上で盛大に挙行。常陸宮同妃両殿下レストハウスにて朝食を取られる。
1970(昭和45)年 野呂山スカイライン入口に信号機設置。野呂山山開き、野営場の完成を兼ね実施。野呂分校廃校となり生徒10名は呉市と安浦町へ転校。
1980(昭和55)年 2月野呂山大火38時間後に鎮火104haを焼く。7月野呂山頂ロッジ横にテニスコート4面完成。
1983(昭和58)年 4月野呂山さざなみスカイライン無料化
1984(昭和59)年 6月筆づくり資料館完成。
1985(昭和60)年 4月筆づくり資料館オープン。
1989(平成元)年 4月野呂山かぶと岩展望園地に新しい展望台完成。
1993(平成5)年 3月岩海遊歩道星降る展望台完成。