tkmov(バイクとローカル線と)

バイクでローカル線を巡るという、少し変なブログ。訪問駅のリストは、カテゴリ「事務連絡」の中の「駅名リストのリスト」から辿る事が出来ます。

このBLOGについて

バイクでローカル線をめぐるという、少し変なブログ。鉄分がほぼゼロなので、鉄道趣味的なものは期待しないでください。やってみると駅探訪になってしまいそうですが、あくまでローカル「道」を走るという事が主眼ですから。

訪問後に記事を順次アップするので、記事日付と訪問日はバラバラですし、データベースとして使用しているので後から情報を追記・修正することもあります。訪問した駅名リストは、カテゴリ「駅名リスト」から参照できます

駅名リストのリスト - tkmov(バイクとローカル線と)

 

山陰本線:木与駅 (きよ)

(宇田郷) - 木与 - (長門大井)                         (訪問日: 2021/07/21)

殺風景な宇田郷駅から国道191を西進し、港が見えて人家が増えてきたなと思うと木与の集落で、そこを過ぎた所の国道脇に木与駅が現れます。
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駅が国道のすぐ脇の築堤上にあるので、アプローチは歩道の幅しかない下の写真の様な側道を登って入ることになります。車ではちょっと無理なので、国道沿いに何とか停めるしかないですね。だいたい二輪車もここに入っていいのかどうか、ちょっと微妙です。
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木与駅はホームに隣接した駅舎のある無人駅。駅舎には出札窓口とかの有人駅的な仕組みが無いので、最初から無人駅仕様の待合所と言うべきかも。自動券売機、改札機、トイレ、飲料自販機はいずれも無し。こういう立地なので駐車場、駐輪場もなし。
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ホームは単式2面2線で駅舎に隣接した方が益田方向(上り)。対向ホームが長門方向(下り)で、対向ホーム上には待合所が1棟たっています。ホーム長は駅舎側が155歩、対向が162歩で、約60歩の千鳥配置。
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 下は対向ホームから見た上り(益田)方面。その次は下り(長門)方面。
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対向ホームへの連絡には、昔は長門側のホーム端に跨線橋があったそうですが、現在は駅を出て、益田側150mくらいの所にある築堤下の歩道を通って対向ホームの端から入ります。結構バリア・ノットフリーです。

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築堤下の歩道トンネル。バイクでも大型は通るのはちょっと無理。って、ここを通り抜けても結局歩道しかないので、通る意味はありません。
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建物財産票は駅舎では確認できず、対向ホーム上待合所にはあったはずだが撮影忘れ。下の写真は付属設備のものです。
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山陰本線:宇田郷駅 (うたごう)

(須佐) - 宇田郷 - (木与)                        (訪問日: 2021/07/21)

須佐駅から宇田郷駅へ、山陰本線は海岸よりを通って国道191とは離れます。線路沿いに県道が通っていますが、山道で時間がかかりそうだったし、どうせ山陰本線は大半をトンネルで抜けるので、横着して国道191でショートカット。撮影スポットの惣郷川橋梁も遠くから眺めるだけで通過。(ここだけでも近寄っとけばよかったかも)

そうやって海岸線に出てきて惣郷と宇田の集落のちょうど中間、海岸べりにある宇田郷駅です(下の写真の海岸線に下った所が駅)。でも周囲には「越波注意」の看板が並ぶほど海に近く、人家もないこんなところに駅が設置されているのも不思議な話。手前の惣郷もこの先の宇田も江戸時代からの駅宿なので、そちらに設置すればよかったのに。特に宇田なら設置場所はあったと思う。*1
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宇田郷駅は待合所が1棟の無人駅。Wikipediaによると最近まで木造駅舎があったようで、なるほど、整地されたアスファルト跡やホームへの階段の感じが飯浦駅の駅舎取り壊し跡とそっくりです。券売機、改札機、飲料自販機、トイレも無し。駐車場枠は無いながら数台は駐車可能、駐輪場は屋根付きで約20台分。(この自転車は惣郷や宇田からやってくるんだろうか)
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下の写真の背後の壁は、海からの越波を防ぐための様です。
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ホームは単式1面1線ですが、山側には使われなくなったホーム1面と線路が見えます。ホーム長は152歩。下の写真は益田方面。その次は長門方面。
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対向ホームへは跨線橋があったとの事で、ホームには階段跡が残ってます。(Google Mapには跨線橋撤去中の2017年9月の写真があり*2 *3  )

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*4

 

*1:あるいは双方の折り合いがつかず、ちょうど中間地に作ることになったのかも

*2:Google Mapの写真のタイムスタンプは登録年月なので、正確には撮影日というわけではない

*3:Google Mapの衛星写真は今日時点、まだ駅舎が映ってるので、数年前の写真ですな

*4:上の建物財産票は付属設備のもの。待合所のは撮影忘れ

山陰本線:須佐駅 (すさ)

(江崎) - 須佐 - (宇田郷)                       (訪問日: 2021/07/21)

益田から萩にかけての山陰を再訪。江崎駅から西進すると、国道191はすこし山陰本線を離れて山中を迂回、須佐の平地に出た所で再び線路と合流します。

須佐駅は国道脇、駐車場を挟んで駅舎と土産物店が並んで建っています。駐車場は駅舎手前と左手奥に約25台分、駐輪場も駅舎左手に並んで、屋根付きで約30台分。トイレは駅舎左側でホーム外から利用。駅舎右には土産物店、いかマルシェ(スサノモノミトコ館)…特産の男命いか(みこといか)を中心にお土産が買えますが、バイクだとちょっと活イカは持ち帰れないのが残念。(にしても館名の意味はよくわからない)

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駅舎内の待合室は新しく、どちらかというと、よくある交流館という感じ。ホームへの通路にある乗車券販売所は委託らしく、黄色ユニフォームの人(となりの売店と共同?)の出入りはあるけど、列車の来ないときは窓口は無人です。
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ホームは単式2面2線で、駅舎側が益田方面(上り)、対向ホームが長門方面(下り)*1。各々ホームには待合所を設置。
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f:id:tkmov:20210724233537j:plain(長門方面ホームにある待合所)

下は駅舎側ホーム(益田から見て右側)からみた益田方面で、ホーム長は153歩。対向ホームとのズレは43歩。その下は同じく長門方面の写真。対向ホームは162歩で、駅舎側ホームとのずれは60歩。両ホームは跨線橋で連絡です。

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下は跨線橋から見た益田方面。Wikipediaによると右側のホームは島式で写真の右端には3番線がある事になってますが、ホームを歩いた時はそこに線路があるとは気づかず、完全に単式ホームだと思ってました。
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下は跨線橋から見た長門方面。こう見ても3番線があるようにはみえませんが。
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写真中央の2番線のカーブが一部直線になっているところを拡大すると、草に埋もれた3番線の痕跡が見えます。2013年の水害からの復旧中には3番線を使っていたそうですが、どのくらいの期間でここまで草叢に隠される様になるのかが知りたいところです。*2

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須佐湾ホルンフェルスと言えば日本地質百選です。時間があれば高山の磁石石とか見てみたかった。神話の里の"みこと君"といえばたぶん須佐之男命、"こうてい様"というと高山にある黄帝社のこと?
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駅前にある"時刻表の父" 手塚猛昌顕彰碑。こういう碑を見なければ、たぶん一生知らなかった人です。

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手塚 猛昌(てづか たけまさ)
 嘉永六年(1853年) 毛利藩領益田家家臣岡部護英の次男として須佐河原丁に生れる。士族とはいえ貧しい生活の中でも向学心に富み、三十三歳の老書生として慶應義塾に学び、卒業後は、庚寅新誌社を創立。明治二十七年慶應義塾の恩師福沢諭吉の勧めにより荘田平五郎からの援助を受け、イギリスの時刻表を手本に、日本で初めての本格的時刻表月刊「汽車汽船旅行案内」を発刊。この時刻表の発刊により交通・運輸の利用は格段に拡充し、近代日本発展の一翼を担った。
 また、猛昌は東京市鐵道(後の都電)や東洋印刷、帝国劇場、旅行案内などの創設等に関わり、財界人としても大いに活躍した。こうした彼の功績を時代に引き継ぎたく顕彰碑を建立する。
      手塚猛昌顕彰事業実行委員会

 

*1:ホームには番線が書いてませんが、Wikipediaによると駅舎側が1番、対向ホームが2番とのこと

*2:只見線の不通区間の様子からすると6~7年あればこのくらいにはなりそうですが、2003年廃線可部線毛木駅の様に全然草の生えないところもあるし、結構まちまちですよね。

山陰本線:飯浦駅 (いいのうら) 再訪

(訪問日: 2021/07/21)

益田から萩への道すがら、2017年に見てきた飯浦駅を再訪。あの時は駅名看板の無い駅舎を見て取壊しを懸念してましたが、やはり予想的中、木造駅舎は無くなっていて真新しい倉庫に置き換わってました。
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取壊しと一緒に立木も刈り込まれたようで、依然の木立に埋もれた感じからずいぶん、さっぱりとしています。ホームへ上る階段も、駅舎があった時はもっと高く急に感じたものですが、建物が無くなると平坦に感じます。

で、こちらが新しい待合所。4年しか経っていないのに適度にウェザリングがかかっていて、昔からあるように思えるのは不思議なもんです。
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ホームの様子は2017年の頃と変わらず、雑草が刈り込まれて少しすっきりとしたかな。ホーム長は147歩。
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山陰本線:飯浦駅 (いいのうら) - tkmov(バイクとローカル線と)


こういうのを見ると、今まで行った場所を再確認したくなります(隣の江崎駅とかホームが閉鎖されたりしていたし)。ですが、まあ時間がいくらでもある訳で無し、神社とか行きたいところもあるし、やはり最初から思っていた「成り行き次第」というスタイルになるんですな。

 

 

山陰本線:沿線-高津柿本神社

(益田) - - (戸田小浜)                         (訪問日: 2021/07/21)

以前に戸田小浜駅近くにある、柿本人麻呂生誕地に建つ戸田柿本神社に行きましたが、今回は人麻呂終焉の地にちなんだ高津柿本神社に寄って見ました。

津和野から国道187で北上し、益田市街地に入ったあたりで高津川を高角橋で渡ると、すぐに高津柿本神社への参道です。参道奥の鳥居横に大きな駐車場があり。天満宮の様な朱塗橋と立派な楼門という構えというのを見ると、やはり戸田の方の神社と比べて、旧藩主からの庇護の厚さというのを考えてしまいますね。

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楼門は二層桁行三間の瓦葺入母屋造り。初層には色紙に書かれた和歌が奉納、掲額されています(ちょっと写真では分かりにくい)。ちょっと面白いのは、参道階段の脇に童謡(烏の子)とか、歌謡曲(翼をください)とかの歌詞が架けてある事。人麻呂の歌聖としての御利益は歌謡曲にも及ぶという事なんですかね。
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下は楼門から見下ろした参道と高津の市街地。近世には山陰道の宿場はここに見える高津にあって、明治期の地図を見れば高津川の向こうの益田とは別の街だったようです。
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参道脇の稲荷神社。他に八幡社があるのですが、そちらには寄らずじまい。
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参道を登って山頂に着くと本殿、拝殿の横に出ます。説明板によると寄進した津和野藩主のいる津和野を向いているそうですが、津和野の南西方向というよりは、通常の神社の作法に従って南面しているように見えます。
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拝殿前の展望台にはこの地に因んだ柿本人麿の歌が掲げられていて、「石見のや 高角山の」というのはきっとこの山の事なんだろうな、とか思いながら、津和野への眺望を眺めていました。
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島根県指定有形文化財
柿本神社本殿 (指定 昭和五十七年六月十八日)
 柿本神社の祭神は柿本人麿で、その起源は人麿の終焉地鴨島に勅命により建立された社殿と言われています。
 鴨島は万寿三年(1026年)の大地震により海中に没しましたが、その時に人麿尊像が松崎に漂着したので、現在地より北の松崎の地に社殿が再建されました。その後、近世に入り慶長十三年(1608年)に徳川秀忠の命により、石見銀山奉行大久保長安によって造営され、寛文十一年(1671年)には津和野藩主亀井茲政(これまさ)によって宝殿、拝殿、楼門が修理されました。
 そして延宝九年(1681年)に茲親(これちか)は風波を避けて神社を現在地の高津城跡に移転しました。複雑な地形を効果的に利用した社殿配置と独特の建築様式を持った当神社は津和野藩が残した重要な遺産となっています。
 本殿は正面三間、側面三間の入母屋造妻入、檜皮葺で、唐破風造の向拝を有し、津和野の方角を向いています。殿内は亀井家の四ツ目結び紋を配した板扉によって外陣と内陣に区切られ、内陣の中央後方に須弥壇があり、向唐破風造屋根を戴く厨子が置かれています。
 また、柿本神社享保八年(1723年)の人麿千年祭にあたり正一位柿本大明神の宣下を受け、社宝として重要美術品に認定された御法楽御短冊が奉納されています。
    平成八年三月         益田市教育委員会

 

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柿本神社楼門由緒
 歌聖柿本人麿朝臣は、天武天皇持統天皇文武天皇に宮廷歌人として使えられ、大宝年中に石見国府の役人として石見に下り秀逸な石見相聞歌を残し、神亀元年(724)、石見高津の鴨島で逝去された。聖武天皇は甚く嘆かれ、勅命により鴨島に人丸社を創建された。万寿三年(1036)五月、石見未曾有の地震のために鴨島は陥没した。人丸社の尊像は松崎の地に漂着し、地区民は人丸社を再建した。石見大森銀山奉行大久保石見守長安は社殿の造営を行った。
 現在の柿本神社は、津和野藩主亀井茲政が、延宝九年(1682)、高角山に本殿、拝殿、楼門を建立したことから始まる。楼門は神聖な神社への出入口で、殊に入念に建造されている。これは偏に津和野藩主亀井茲政の崇敬が、篤かったことが伺える。
 この楼門は、初層と上層からなり、二層とも桁行三間、梁間一・五間の三間楼門で屋根は瓦葺きの入母屋造りである。上層には四方に切り目縁の床を張った廻縁を付け、勾欄を組み、組物は出組で、蝦尾を思わせるこぶし鼻と、柱頭の装飾的な木鼻が特徴的な折衷様式の門である。
 前回の大改修は明治二十四年(1891)に行なわれ、今回の平成十七年(2005)の改修は、百十四年ぶりの大改修となる。長い年月にわたる風雨などにより劣化が進んだため、屋根の吹き替えと木部の取り替え等の大改修が行われた。築後三百二十四年を経て、二十一世紀の現代に再生された。

 

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ちなみに万寿三年に人丸社尊像が漂着した場所は、ここから約2km北の山陰本線北側にある金毘羅神社恵比寿神社辺りとの事。今回は気づかずに訪問できなかったのですが、津波被害を伝える"松崎の碑"が国土地理院の自然災害伝承碑のリストにのっています。

自然災害伝承碑 | 国土地理院

 

ところで楼門の扁額は有栖川宮熾仁親王揮毫。この方の揮毫はいろいろな神社で見るような気がします。多家神社がそうだし、厳島神社大鳥居もそのはず。あるいは、この方以外では揮毫者名を掲示するという事がないだけなのか?

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呉線:須波駅 (すなみ)

(三原) - 須波 - (安芸幸崎)                       (訪問日: 2021/06/20)

三原市街地から南に分かれ、国道185で海岸沿いに呉線の最初の駅、須波駅に行ってきました。沼田川を南にわたるとすぐに呉線のガード下をくぐり海岸線へ。
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途中、国道脇の工場に並んでいた巨大な防波堤(?)のようなもの。ナンバーがついているので何かの水門かも?
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で、三原から5kmくらいの最初の集落で国道から、下の道で100mくらい入った所が須波駅です。右側の丸っこい山がたぶん筆影山
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須波駅は駅舎は無くホーム上に待合室だけの無人駅。Wikipediaによると2018年に駅舎取壊されたとの事ですが、この階段の前にかつては駅舎があったんでしょう。駐車場枠は特にないけど10台くらいは余裕で駐車できそう、駐輪場はここではなく左手(呉側)の地下道歩道の中のようです。周囲は住宅だけで売店、食堂は無し。ただこの写真の反対側、三原方面ホームの入口に閉店した酒屋があります。
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ホームは対面する単式2面2線ですが、三原方面ホームには盛土の脇を歩いて下り方向にある地下歩道を通って渡ります。下の写真がその地下歩道と三原方面ホームの入口。この地下歩道が駐輪場だそうですが、歩道なので自動二輪車は入れません。
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ホームは単式2面2線で、海側に引込線の跡もあり。ホーム長は248歩で上下線のズレは69歩。

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右側が引込線跡で短いホーム跡もあり。それと、この角度から見ると筆影山が間近にまで迫っているのがよくわかります。
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上下線ホームには待合所が1棟ずつ、自動券売機とタッチ式改札機が設定されています。次の写真が下り線、その次が上り線。
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おまけ:駅から1km余り南にある須波フェリーターミナル。大久野島瀬戸田へのフェリーが発着しています。ただ、須波駅を使って船-鉄道連絡するには、ちょっと遠いなあという印象。まあ徒歩の人は三原港行きを使うかな。
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