tkmov(バイクとローカル線と)

バイクでローカル線を巡るという、少し変なブログ。訪問駅のリストは、カテゴリ「事務連絡」の中の「駅名リストのリスト」から辿る事が出来ます。

山陰本線:静間駅 (しずま)

(大田市) - 静間 - (五十猛)                   (訪問日: 2018/05/01)

静間駅は入口が海側、太田の方から国道9号で来ると間にある山を迂回しないと駅に入れないので、少し迷います。

木造平屋瓦葺の無人駅(波根、久手駅よりも一部屋分くらい大きい)、自動券売機、自販機はなし (自販機は駅前の閉店中売店前にあり)。駅前広場に数台の駐車は可能、駐輪場の区画は無く空地に適当に駐輪。トイレは駅舎右手の増設部分にあり(簡易水洗)。駅舎にも周囲にも売店、食堂は無し。

駅舎の事務所は静間駅会館という公民館になっており、その奥(駅舎向かって左側)は何かのアトリエでプロパンボンベがある所を見ると住居兼用になっているのかも。

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ホームは駅舎側の1面1線ですが、対向ホームの遺構あり。ホーム長は151歩。

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駅舎にアクリル製建物財産標と木製財産標(?)がついている珍しい例。木製が付いていたのは出窓横の柱上 (下の写真参照)。

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ここの駅舎の瓦もJRマーク付き。
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こっちはホーム真ん中あたりにあった、何かの基準標。
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山陰本線:波根駅 (はね)

(田儀) - 波根 - (久手)                   (訪問日: 2018/05/01)

掛戸松島から海岸沿いの県道を通って波根駅へ。駅の周りや駅そのものも久手駅とそっくり。違いと言えば、ここの駅舎前の植栽が松で、待合室の出札窓口が昔のままの木製だというくらい。あとはホームが島式1面2線というところ。

駅舎は海向きで木造平屋瓦葺(JRマーク付き)、無人駅で券売機は無し。待合室にはトイレ設置。駅前に駐車区画は無いけど5~6台程度駐車可。駐輪場は駅舎右手に屋根付きで約20台分。売店、食堂は駅舎、周囲にも見当たらず。海水浴シーズンなら何か店があるかも。建物財産標は駅舎では未確認、ホーム上の待合所で確認。

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ホームは島式ホーム1面2線。ホーム長は157歩。下はホームから見た出雲方向と大田市方向。
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作家 芥川龍之介下車来遊の地
 波根駅が開業したのは大正四年七月十一日である。それから間もない八月のある日、芥川龍之介は第一高等学校以来の親友、井川恭(松江出身)と共にこの停車場に降り水月亭に宿をとった。(井川恭28才、芥川龍之介24才の時である)

 二人は海にのぞんだ椽に腰掛け、眺望の素敵さに「佳いね!ほんとにいいね!今夜ここへ来てよかった。」とお互いに言い続けた。
 夕方の海に飛び込み浪のうえに手足を浮かせ水の思うままに揺さぶられていた。ちょうどその折、太陽は海の涯に沈んでいった。「あっ、うつくしい!」二人はうれしくてたまらないように叫び「日の終焉」の栄をほめたたえた。
 明くる朝、鰐走り(掛戸)まで散歩し正午過ぎの汽車に乗り二人は今市に向かった。
「愛すべき波根の村よ!美しかった昨夕の日没よ!」と心の中にさけびながらトンネルに入った。
    (井川恭著「翡翠記」による)

芥川の訪れた時代と変わらず、駅の目の前はすぐに海水浴場の砂浜です。

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山陰本線:沿線-掛戸松島

大田市駅で少し内陸に入っていた山陰本線が、久手駅を過ぎて波根の手前でググッと海岸線に近づいたところが名勝 掛戸松島です。

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f:id:tkmov:20180604232343j:plain 海岸線に立つ案内板

大田市指定名勝
掛戸松島
      平成五年三月十七日指定
      久手町波根西海岸(国有地)
 久手駅から徒歩で波根西海岸へ約十分位の所に要害山と梶山の切割から日本海に浮かぶ「掛戸松島」を望むことができる。
 この松島は鎌倉時代、徳治元年(1306年)地元の郷士有馬次郎左衛門一政と、二代目の次郎左衛門宗茂が千数百人の夫役を指揮して七ヶ年余の歳月を費やして開掘した所である。
当時波根湖は増水期になると水が氾濫して住民は難渋しており、度々の災害に遂に山岳を開掘して、湖水の水を日本海へ疎水することを遂行したのである。
 今は海水の浸食によって人工の跡はほとんど分からなくなっているが、奇岩、怪石が海中に散乱しており、六七八年前の難工事がしのばれる。
 日本海の波間にすくっと立っている松島の絶景は、明治四十年五月二十八日大正天皇東宮殿下の時、山陰行啓の折にしばしばご高覧され、昭和六年夏には簸川郡高松村出身の日本画家竹田霞村が「掛戸松島」を描いて広く世に紹介して以来「石東の名所」とよばれている。
  平成六年三月三十一日設置
     太田市教育委員会

(松島左右の山の名に、要害山、梶山と出ていますが、要害山は内陸部の出雲市境に近い山の名です。地形図(1/25,000)でも山名は出てないし、ちょっと疑問です)

 

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上の写真は国道9号からみた掛戸松島の遠景。正面で日本海を遮るように立つ屏風のような山が2つ、その間の隙間が掛戸の切割で、かすかに松島の細長い影が見えます。山陰本線はこの山体の内陸側をかすめて通っています。山の左右は砂丘由来の微高地で久手と波根の集落がのっていますから、ここから見れば山の間の隙間を開堀しようという気になったんでしょうね。 で開堀した結果、手前の平地が干拓されたのかというとそうではなくて、ここにあった波根湖が干拓されたのは昭和25年。(島根県 農村整備課HPより)。という事は、大正天皇行啓の頃は、日本海と波根湖に挟まれた砂州上の山陰本線から松島を見ていたのでしょう。

 

ところで奇岩以外に気になると言えば、手前の山陰本線橋梁の奥にある石組みの基礎。横から見ると防波堤の様にも見えるし、昔の橋脚跡の様にも見えるし。

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山陰本線:久手駅 (くて)

(波根) - 久手 - (大田市)                   (訪問日:2018/05/01)

大田市駅からほぼ線路沿いの県道をたどって久手駅に。大田市駅は山側を向いた駅でしたが、久手駅は港町らしく海向き。県道沿いの薬屋の前を100m程入った所が久手駅です。駅前広場に乗用車6台分くらいのスペース(ただし区画無し)。構内に食堂・売店・自販機なし、駅前の県道は昔の街道筋(北浦街道の続き?)なので売店くらいはあるかも)

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駅舎横の駐輪場は藤棚付。
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無人駅で自動券売機もなし(Wikipediaには乗車駅証明書発券機があると書いてますが、撤去されたのか)。

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下の写真はちょうど入線してきた下り列車。ホームは島式ホーム1面1線(ホーム長160歩)ですが、線路の曲がり方からすると昔は駅舎側にもう1線あったらしい。
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こちらは大田市方向
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ホームの待合室は浅利や下府などにあるような半分開放型。駅舎もそうだけどここの瓦もJRマーク付きです。(待合室に使っているのは、ここと浅利駅ぐらい)
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山陰本線:大田市 (おおだし)

(久手) - (大田市) - (静間)                    (訪問日: 2018/05/01)

高速道路が開通した出雲や浜田、江津に比べて、太田市近辺はちょっと足が遠のいてました。まあ、そういう所にも行くためにローカル線めぐりをしている訳ですが。今回は国道54号から184号、三瓶山麓の牧草地を通って太田市駅まで。

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大田市中心部にある太田市駅は長門市駅とよく似たコンクリート製一部二階建て。GW中とはいえ、この規模の山陰本線の駅の中では一番利用者が多く思えます。(鳥取、松江、米子とかは別格でしょうけど)。駅前には送迎用駐車場枠が6台、駐輪場は駅右手に屋根付きで多数。自動券売機(チャージ非対応)設置、待合室に売店(土産物店)あり。これで立食いうどんでもあれば完璧なんですけどね。

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島ホームへの跨線橋が何か風格があるなと思ったら、現存最古の鋳鉄製門柱だそうです。
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一方でホーム屋根の支柱はレールを溶接して作ってあるように見えます。
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ホームは2面3線で、駅舎側ホーム長は227歩、島ホームの方は167歩。
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こちらは駅舎右手にある瓦屋根の立派な駐輪場。
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JR駅の斜向かいにある石見交通のバスセンター
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やはり観光でいえば石見銀山が一押しで、駅前から観光用バスが何台も出ています。ゆるキャラも銀山で使っていた螺灯(さざえ貝殻をつかった灯り)から生まれた、らとちゃん。

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可部線:廃線部分の現状一覧表

可部線廃線部分の各駅の状況を一覧表にしてみました。

駅名 備考 駅舎 待合室 駅名標 ホーム 線路
河戸 現在供用部分にあるが、駅としては廃止 - × × × ×
今井田 朽ちるに任せる - × ×
安芸亀山 道路に転用 - × × × ×
毛木 朽ちるに任せる - × × ×
安芸飯室 レストランに改装 -
ほぼ駐車場と資材置き場と化している - × ×
小河内 ホームの一部の盛土のみ残る × × × × ×
安野 そのまま保存 -
水内 公園に転用(駅名標を遺せば良かったのに) - × ×
坪野 道路に転用 - × × × ×
田之尻 朽ちるに任せる - × ×
津浪 駅跡には特産品販売所兼食堂 - × × ×
香草 駅名票のみ残る - × × ×
加計 ホームの一部を保存 × × × ×
木坂 朽ちるに任せる - × ×
殿賀 待合室に写真展示有り、保存している -
上殿 道路に転用 - × × × ×
筒賀 道路に転用 - × × × ×
土居 朽ちるに任せる - × ×
戸河内 駅名標のみ残る × × × ×
三段峡 駐車場などに転用 × × × × ×

 

可部線:廃線-土居駅から三段峡駅

前の記事に続いて、可部線廃線跡の探索は土居駅からです。

土居駅                  (訪問日: 2018/05/27)

可部線は筒賀駅から再び太田川河畔(戸河内地区)に戻ってきて、国道191号線と合流するところが土居駅です(でした?)

ホームは閉鎖されてませんが待合所の屋根壁は無くなっています。盛土上で吹きっ晒しなので風で飛ばされないように撤去したのかも。線路は撤去されていますので保存対象ではないという事でしょう。

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三段峡側のホーム端には真新しいフェンスが張られ、そこの橋梁には落下防止ネットが張られているところを見ると、近々橋梁部を撤去するのではないかな。やはりコンクリ製橋梁は剥離片の落下とかが怖いんだと思います。

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河内駅                   (訪問日: 2018/05/27)

安芸太田町(可部線があった頃でいえば戸河内町)の中心部にあった戸河内駅、今は空地になって駅名票だけが残っています。

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ーーここはJR可部線河内駅の跡地です。ーー
 広島ー浜田間を結ぶ「広浜鉄道」計画は、明治27年以来の建設運動により、昭和11年に横川ー可部間(明治44年開業)の鉄道が国有化され「可部線」となり、同年に可部ー安芸飯室間が開業し、昭和21年には安芸飯室ー布間、昭和29年には布ー加計間が開業しました。
 その後も、沿線の自治体と住民が一体となった広浜鉄道建設運動が行われ、昭和44年7月27日に待望の加計ー三段峡間(14.4km)が、国鉄本郷線として開業しました。後に可部線編入され、可部線(昭和62年にJR可部線)は横川ー三段峡間(60.2km)となりました。
 しかし、モータリゼーションの進展と観光ニーズの多様化などにより、利用者が減少し、国鉄民営化後の合理化が図られる中で、廃止対象路線となった可部ー三段峡間は、沿線住民の総力を結集した存続運動にもかかわらず、平成15年11月30日に廃線となりました。
 可部線は、長い間沿線の住民にとって重要な交通手段としての役割を担ってきただけでなく、開通まで70有余年かかった夢の鉄道として、大切にされてきました。
 この広場は、沿線住民の可部線への思いを後世に引き継ぐため、JR戸河内駅の跡地に整備したものです。
ーー安芸太田町ーー

 

三段峡                   (訪問日: 2018/05/27)

可部線終点の三段峡駅(跡)のある柴木集落への入口。橋を渡った先の正面に可部線跡の盛土橋梁があります。

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三段峡駅跡は今は登山者の休憩所とトイレに、線路・ホーム跡は駐車場になっています。

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駅跡前の三段峡登山口。休日という事もあり登山者で結構な賑わいです。(写真にはたまたま、あまり写ってませんが)

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三段峡沿線

三段峡から先を浜田まで結ぶ計画もあったといいますが、三段峡奥の国道191号なんか登坂車線もある急勾配ですから、どうやって鉄道敷設するつもりだったんだろうかと思います。(計画では石見街道(国道186)までトンネルで抜けるつもりだったようですけど)

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というような事を考えながら計画路線付近の広域農道を走っている時に見かけた小学校跡ー旧雄鹿原小学校空城分校ーこぶしの里ふれあいセンター。サイクリングコースになっているらしい。

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可部線:廃線-上殿駅から筒賀駅

前の記事に続いて、可部線廃線跡の探索は上殿駅からです。

 

上殿駅                   (訪問日: 2018/05/27)

上殿駅(跡)は近くに戸河内ICがあり、国道186もバイパスが出来ていて快走路。
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そのバイパスからかつての可部線を越えていた陸橋から見た上殿駅(跡)が下の写真です。(手前の水田が切れるあたり、小路が横切っている所です)
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上殿駅跡。手前の砂利路面の部分が線路跡で、奥のアスファルト道路あたりがホームだったと思われます。その奥には駐輪場が残っています(トランザルプを停めたところ)

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可部線は上殿駅から土居駅の間で南に曲がって太田川から離れて旧筒賀村に入ります。戸河内IC入口と太田川を越える高架は残ってますが、太田川からトンネルまでの間の高架は撤去済。下が田畑なので、高架で日陰になるとか思われたのかな。

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こちらは上殿駅(跡)上空で見えた米軍機。尾翼のシルエットからするとF/A-18か。この後、三段峡ではかなり飛んでて、うるさかったですね

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筒賀駅                  (訪問日: 2018/05/27)

可部線は上殿駅から戸河内ICを通り過ぎて、太田川支流の筒賀川に沿って旧筒賀村に入ります(入ってました、か)。筒賀に入って線路下をくぐったところには、盛土上に歓迎の植栽がまだ手入れされて残っています。裏側は別れの挨拶です。

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筒賀駅前の広場は残っていますが、ホームや待合所は撤去されて道路になっています。加計方向の線路路盤はそのまま残ってますが、余所とは違って綺麗に除草済。周りが田畑なので草叢にはできないんでしょうね。

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今の国道186号は筒賀川沿いに山を迂回してきますが、旧国道は可部線と同じく山をトンネルで抜けてきてます。トンネル内はバイクでも離合困難なので、対向車が来ないこと祈ってから通り抜けます。

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可部線:廃線-加計駅から殿賀駅

前の記事に続いて、可部線廃線跡の探索は加計駅からです。

 

加計駅                  (訪問日: 2018/05/20)

国道から加計駅跡に入ると正面に残されたプラットホームが見えます。手前の看板とか周囲の風景は昔のままかな。(駅前に寄った時の記憶があいまいですが)

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加計駅はホームの一部と右手奥に車庫が遺されています。そして駅前広場にあるのは太田川交流館「かけはし」 
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木坂駅                    (訪問日: 2018/05/20)

国道186号線沿い、斜面上にある(あった)木坂駅はホーム・待合室とも、撤去も手入れもされず、朽ちるに任せられている様子。(というのも、保存活用している駅はホーム部分の線路が残されているけど、ここは撤去されているから)

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廃線になっているので、ホーム下からのこういうアングルからの写真も撮り放題です。そういえば三江線ならホーム周囲をガチガチに封鎖して線路に入れないようになってますが、ここには柵もロープもなし。15年前はそんなに神経質で無かったのか、年月がたって封鎖が解けたのか。
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殿賀駅                 (訪問日: 2018/05/20)

ここも木坂駅と同じく国道186号線沿いの山ぎわにある駅ですが、こちらは整備保存されているらしく、ホーム部分の線路と駅名票が残り、待合所の中には可部線を偲ぶ写真が展示されています。ただ国道に面した待合所背面はツタで覆われているので、一見さんは整備されているとは気づきませんよね。

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坪野駅跡で気になっていた20000キロの碑の説明も掲示されていますが、正確には「鉄道20000キロ」ではなく「国鉄」だと思いますよ。

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ホーム上にある駅名標は、パネルは本物みたいですが取付枠は後からの加工品に見えます。(普通は鉄パイプ枠ですが、もしかして元からこういう枠だったのか?)

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可部線:廃線-田之尻駅から香草駅

前の記事に続いて、可部線廃線跡の探索は田之尻駅からです。

 

田之尻駅                  (訪問日: 2018/05/20)

可部線の駅はここまでは太田川左岸でしたが、田之尻駅で初めて右岸の駅になります。下の写真は国道191から橋を渡って、かつての踏切りから見た田之尻駅と反対側のトンネル。駅手前の鉄橋は撤去され、線路跡は草刈されているとはいえ、少しずつ草叢に戻りつつあるように見えます。

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そういえば錦川鉄道の廃止路線(正確には供用されなかった岩日北線)のトンネルは冷暗倉庫として使われているので、ここでもそういう活用があっても良いのでは?

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ホームに待合所が残っているのは、今井田駅から2つ目。待合所内には廃線時の時刻表が残っているのが切ないですね。
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田之尻駅から北上する線路跡。所々で離合場所のために切り崩されてますが、この先の鉄橋までは砂利敷きの路盤が残されています。こういう藪に隣接していても砂利が残っている場所と、灌木に覆われた場所との違いは何なんでしょうね。
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津浪駅                    (訪問日: 2018/05/20)

上の写真の先で可部線太田川の左岸へ渡って国道191と並走し、北上した所に津浪駅があります(ありました、か)。バイク野郎的には国道191の加計バイパス分岐点と言った方が早いです。

駅は地元品の販売所「ぷらっとホーム つなみ」になっていて、線路のペイントと駅名標がかつて駅があった事を物語っています。食堂ではカレーやうどん、焼鳥もやっていて、焼鳥は手のひらくらいの胸肉が1本400円、お得です。焼鳥を焼いていたおじいさんと「廃線からもう15年だねえ」と離すそばで小学生が遊んでいて、この子らは可部線を知らないんだなあ、と思うと感慨深いです。

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香草駅                  (訪問日: 2018/05/20)

加計街道の国道433(昔の191)に沿った可部線線路跡、市街地部分でも砂利路盤がのこっています。

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国道から少し入った香草駅跡に着きましたが、ここは駅名票だけで何も無い空地(もしかしたら公園)です。Wikipediaの記事ではホームと待合所が残っていると書いてありますが、公園整備が去年3月(駅名標下の説明板)なので、駅が撤去されてから1年程度しか経ってないのでしょう。

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~かつて、ここに可部線の香草駅がありました。~
 可部線は昭和29年(1954)に加計駅まで開通していましたが、香草駅は地元住民の要望を受けて昭和41年(1966年)に開業しました。
その後、平成15年(2003年)12月1日に可部駅三段峡駅間の廃止に伴い香草駅も廃止されました。香草(かぐさ)の地名の起こりは、昔お茶の木をこの地に移植した際に”香気高き草”になずらえたといわれています。「大田の庄のお茶」は太田川の川面に立つ朝霧がよいとされ、なかでも香南地域(辻ノ河原・遅越・香草)の上等なお茶は特産品で、江戸時代には藩・上級藩士に供するため御用茶として買い上げられていました。
 産業としてのお茶は廃れましたが、今でも自家用としてお茶を作っています。”香草"という地名に込められたお茶の故郷を後世に引き継ぐため香草駅の跡地を広場として整備しました。
       平成29年(2017年)10月 香南振興会