tkmov(バイクとローカル線と)

バイクでローカル線を巡るという、少し変なブログ。訪問駅のリストは、カテゴリ「事務連絡」の中の「駅名リストのリスト」から辿る事が出来ます。

伯備線:沿線-R180明地峠

(訪問日: 2018/08/18)

7月の大雨の通行規制がだいぶ緩和されてきたので、久しぶりに山陰へ足を延ばして、伯備線沿線へ。新見から日野町方面に行くには伯備線沿いの県道8号か、国道180号になるのですが、バイク乗りとしてはどうしても、ついつい峠越えの国道180号を選んでしまいます。

以前に行った時は雨模様だったので見えなかった大山が、今日は良く見えます。山頂部分が崩落して白いデイサイト岩質がむき出しになっているので、夏でも冠雪したみたいな風貌が特徴です。

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姫新線:岩山駅 (いわやま)

(丹治部) - 岩山 - (新見)                   (訪問日: 2018/06/17)

新見で姫新線伯備線から分岐しますが、高梁川も支流に分かれ、県道32号も国道180号から分かれて備中美作境に向けて登ってゆきます。そうやって、備中側から見た最初の姫新線の駅が岩山駅

木造平屋のトタン屋根の無人駅、駅前広場に駐車は5~6台くらい、駐輪場は駅舎右手に屋根付きで20台分。自動券売機なし、トイレは駅舎とは別に最近設置のものがありますが、トイレの看板は昔のものを使い続けています。

長く無人駅だったらしいですが(WikipediaによるとS48以来)前栽の剪定とか、車寄せの駅名看板が掛けかえられてるようだし、少しずつ手を入れながら保存されている様子です。そのせいか自動販売機もなし(正確には県道沿いにはあり)、構内・周囲に売店は無し。

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駅舎待合室の南側のサッシはたぶん後付けの様に思えますが、出入口の扉は昔ながらのひっかけ式で、新旧取り混ぜながら保存されている様子がおもしろい。そういう保存方式のせいか、室内の掲示物は最小限です。
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駅舎の旧事務所は岩山集会所になっており、入口は待合室の反対側。

ホームは駅舎側の1面1線ですが、対向に昔のホームも残っています。(線路のクランク状の曲がり具合からしても、昔は2面2線だったんでしょう) ホーム長は約149歩。

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今は使われていない対向ホームも植栽の手入れがされていて、この雰囲気は三江線川平駅のホームと似ています。(あちらは廃線になってしまったので、今後どうなるか観察が必要ですが)

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下は駅舎周辺の様子(駐輪場とトイレ)
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下は駅名標。建物財産標は未確認。
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伯備線:石蟹駅 (いしが)

(井倉) - 石蟹 - (新見)                   (訪問日: 2018/06/02)

何故か井倉駅付近から複線化している伯備線石蟹駅手前でも鉄橋2本で国道180を越えてゆきます。でも石蟹駅を過ぎたらまた単線に戻るんですけどね。

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石蟹駅は木造一部鉄骨平屋瓦葺の有人駅で自動券売機非設置。タクシー会社の委託業務らしいので駅前はタクシー駐車場(2台分)、駅の窓口の半分はタクシー会社の受付です。トイレは駅舎右手に別棟、その向こうに屋根付駐輪場で約10台分。駅前スペースに10台くらい停められますが、駅舎右手には広い月極駐車場があります。この駐車場の管理も小川タクシーの様で、営業時間は6:30~23:30、駅業務も同じ時間なら普通の有人駅よりもずっと便利そうです。

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駅舎側のホーム長は約235歩。
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下は複線で入ってきた井倉方面の線路。
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単線で出てゆく新見方向の線路
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下の財産標は駅舎のものですが表示は「職場2号」。ホーム上の待合所が3号なので、1号がどこかにある?
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伯備線:井倉駅 (いくら)

(方谷) - 井倉 - (石蟹)                  (訪問日: 2018/06/02)

高梁川をさかのぼって有名な井倉峡に近づいてくると、両側の岸壁も険しさを増してきます。

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国道から分かれて旧道で井倉駅に行く途中に井倉洞入口があります。下は、その駐車場から見た石灰岩の岸壁。
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井倉洞を過ぎて井倉駅への入口。駅前に雑貨屋等があります。

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井倉駅はコンクリート造平屋の有人駅。6:00-12:00勤務なので委託業務かも。自動券売機なし、待合室には飲料自販機あり。駅前に数台分の駐車スペースあり、駐輪場は屋根付きで約30台、駅舎左手には月極駐車場が23台分。

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ホームは駅舎側と島式ホーム2面で3線。いつの間にか路線が複線になっている。ホーム長は265歩。

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ホームを通過する特急やくも
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こちらは新見側にある第8橋梁をゆっくり進む普通列車
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井倉の街は全体が砕石工場みたいな雰囲気で、町中がコンクリやアスファルトではなく、石灰石っぽい白い砂利で舗装されています(さすがに道路はアスファルトですけど)

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こちらは伯備線直線化前の旧線の鉄橋(だと思う)。旧線をサイクリングロードに活用していると言うので、橋上の手摺はそれのためでしょう。

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伯備線:方谷駅 (ほうこく)

(備中川面) - 方谷 - (井倉)                  (訪問日: 2018/06/02)

高梁川を川面から遡ってゆくと、だんだん渓流っぽくなってきて、方谷駅手前では簗杭が仕掛けられている場所も出てきます。

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このあたり、高梁川左岸の伯備線に並走する道路は無いので、右岸の国道から橋で渡河して方谷駅に向かいます。
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方谷駅は木造平屋瓦葺の無人駅。国の登録有形文化財です(伯備線には多い)。橋入口から駅の間に駐車スペースが2~3台ぐらい、駐輪場は確認できず。駅前には昔は宿屋と食堂があったようですが今は営業しておらず、飲料自販機だけが営業中。トイレは駅舎右手に最近のものがあります。
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駅舎左端には方谷資料館が増設されていて、方谷先生の業績紹介されていますが、実はここから駅舎の事務所側に入れます。出札窓口の事務所側から待合室を眺めるという、少し変わった視線が体験できます。

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待合室は有人駅時代の窓口が保存されていながら、ポスターや掲示物も多数。その中でも、やはり駅名になっている方谷先生にちなむポスターや案内が目立ちます。自動券売機は無し。
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改札口を出たところにホームへの階段があると思いきや、今は閉鎖中。ホームへは駅舎から右手に迂回して地下道で上がります。
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ホームは島式1面2線。ホーム長は230歩。(ところでホームに上がる地下道には、息ができない程アカタテハが群集していたけど、写真に撮ると蝶は写らないですね。人の魂が姿を変えて蝶になると誰かが言っていたけど、それだからかなあ)

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屈曲部の多い路線なので、川面、方谷、井倉とこのあたりの駅のホームはカーブばかり。

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古い国鉄時代の駅名標は駅舎のホーム側にかかっていました。
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駅舎入口にある、駅や周囲名所の案内板。確かに個人名を付けた国鉄の駅名は思いつかないですね。(四郎ヶ原とか伝承的な人名の名前は結構ありそうですけど) ところで文中にある大佐町小阪部は、姫新線刑部駅丹治部駅の間のあたりだと思います。そこにも方谷記念館がありますから。
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備中松山藩儒「山田方谷」生誕の地案内
方谷駅名の由来
伯備線開通当時(昭和三年)鉄道省は、駅名を地名である中井・西方または、長瀬の中からと考えていた。しかし地元としては、山田方谷の名を方谷駅として残したいという強い願いがあった。
そこで方谷というのは、西方の谷の事で人命ではないと、陳情を重ね遂に、当時としては全国唯一の「方谷駅」という人名駅が誕生した。
・長瀬塾(跡碑)
山田方谷は、備中松山藩の元締役を退いたのちの一八五九年(安政六年)五十五歳の時、土着政索を自ら実践するため、この地に(方谷駅構内)移住した。この年、後に藩政改革で功績を上げた、長岡藩士(現在の新潟県長岡市)河井継之助が訪れている。
一八六九年(明治二年)塾舎を増築して子弟教育に努めていたが、亡母の霊を慰めるため大佐町小阪部に住居を移転し、長瀬塾は嗣子耕蔵に託した。一八八一年(明治十四年)耕蔵没後、遺族は元の山田家跡(高梁市中井町西方)に移った。
一九二〇年(大正九年)山田方谷縁の人々は、旧宅跡が分からなくなることを恐れて屋敷跡に「山田方谷先生旧宅跡」と石碑を建てた。一九二八年(昭和三年)伯備線敷設に伴い、石碑を現在の場所へ移設した。
・方谷園(ここより北東6km)
時の上房郡教育委員会が発起し、山田方谷を追慕する多くの人々の寄付金と、中井村民の奉仕によって先生の墓前に公園を設け、その遺徳を末永く後世に伝えたいと念願して一九一〇年(明治四十三年)に造営された。園内には、三島中洲撰文の方谷園記碑・茶席倚松庵・風神亭・齏月亭・からかさ亭などがあり、入口には犬養木堂書の「方谷園」の石碑がある。
・報告資料展示室(ここより北東に約6㎞)
方谷の里ふれあいセンター管内に展示室を設け、報告四歳の遺墨(板額)を始めとする関連資料や、報告の生涯を分かりやすく収録した映像が放映されている。
    (中井地域まちづくり推進委員会) 

 

駅の横には方谷旧宅と長瀬塾の記念碑。
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山田方谷旧宅及び長瀬塾跡
この付近には、かつて山田方谷(備中松山藩士・漢学者1805~1877)居宅があり、川沿いには十数本の松が並んでいて、対岸へは専用の渡し舟で渡っていました。報告は藩政改革を成し遂げた後、領内の守備と耕作地開拓のため藩士を移住させる「在宅土着」の理念を実行しようと、藩主に願い出て安政6年(1859)に備中松山城下からここに移り住みました。月の内、半分は藩の仕事で城下に出向き、残りは対岸の山などを開墾しました。また、この年、長岡藩士河井継之助(1827~1868)が報告の教えを請いにこの地を訪れています。
方谷は政治から手を引いた、明治元年(1868)私塾・長瀬塾を開きました。彼に学びたい人々が次々に集まり、塾では学問と同時に人間教育が実践されました。当時の名簿には63人の名前が記載されていますが、実際にはもっと多くの塾生が学んでいたといわれています。
学規(塾のきまり)も5か条定められていました。要約すると次のようになります。
1.1日と5の付く日は休みとする。しかし、起床・消灯は平日と同じにする。
2.帰省及び遠出の他は外泊してはいけない。理由があって帰れない時は報告する。
3.毎朝、先祖・父母に向かってあいさつを欠かさない。これを怠るものは退学を命ずる。
4.秋冬にはしっかり読書する。
5.寮内を清潔にし、傘、履物などよく整頓し、決して他人のものは使用しない。

高梁市教育委員会

 

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伯備線:沿線-備中川面駅付近

田井橋                  (訪問日: 2018/06/02)

備中川面駅から線路沿いに北上すると高梁川にかかる田井橋を渡ります。戦前のS12年に架橋されたリベット接合のトラス橋。「高い技術と多様性が評価され貴重な施設として日本土木学会の選奨土木遺産に認定されました」、だそうです。「支間長88m(日本一を誇ります)」というのは少し意外。

S12年架橋という事は、伯備線の開通で川面駅に行くためにできたのでしょうか。

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野山学問所                   (訪問日: 2018/06/02)

岡山自動車道の賀陽ICから国道180号に出る途中にある、野山学問所跡の案内板。(場所からすると木野山駅の方が近いけど)

ただ案内通り南に行ってみても、それらしい跡は無かったのですが。

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松山藩 野山学問所跡
野山学問所の由来は、備中松山城の南東の方角が防衛上弱点であるという事から、時の藩主板倉勝静がこの周辺の大沢から湯原地区にかけて松山藩士約三十二戸を常駐させて警護させていました。
その藩士の子弟教育のため、安政四年(1957年)ここに野山学問所が置かれたことによります。
敷地九十二坪に八十二坪の校舎が建てられていて、五人の常駐教員のほかに藩から出張してきて教育にあたったと云われています。
学科は漢字、国学、医学、文部両道を旨とされていました。
  吉備中央町教育委員会
  これより南へ二〇〇メートル

 

 

伯備線:備中川面駅 (びっちゅうかわも)

(木野山) - 備中川面 - (方谷)                  (訪問日:2018/06/02)

先日は高梁から木野山駅までたどったので、今回は備中川面駅から北上。国道180号からは高梁川を渡って旧道で駅に入ります。

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備中川面駅はコンクリート製の無人駅。木野山とか豪渓などと同じ様式で駅事務機能の無い待合所扱いだと思う。駅前に駐車場12台分、駐輪場は屋根付きで25台。売店は駅前の旧道にあり、飲料自販機も旧道との角に設置。自動券売機は無し、トイレは別棟で駅舎右手にあり。待合室の中には駅ノートも置かれています。

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ホームは相対式2面2線、ホーム長は約224本で、かつて終着駅だったせいか結構長い。下の写真は跨線橋から見た新見方面。
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こちらは高梁、岡山方面
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こちらは対向ホームにある待合室。建物財産標を信じるならば、駅開業の昭和2年から設置。
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下はホームから見た跨線橋。ここは電化されていても跨線橋には手すりがある程度で、全景を見るのによいので、このままにしておいてほしいものです。(美祢線なんか、非電化なのに背の高いフェンスで遮られて、景色を見る事が出来ないのですから)

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下は跨線橋から見た駅前広場と駐輪場。こうしてみると高梁川沿いの山間に開けた町だと分かります。

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隣接する変電所からの送電ケーブル。普段は3相回路を見慣れているせいか、一見して1相しかない回路に、頭の中が?マークだらけになっていしました。そうかそうか、電車は1相回路か、と納得するまで数分かかってしまいました。

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最初の建物財産標(S55)は駅舎のもの(記載内容からすると待合室扱いです)。次のS2のはホーム上待合室者のもの
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美祢線:湯ノ峠駅 (ゆのとう)

(厚狭) - 湯ノ峠 - (厚保)                     (訪問日: 2018/05/12)

美祢線はずっと厚保厚狭川沿いなのですが、厚保駅から南は川に山が迫っていて川沿いの道がありません。なので厚保駅の次の湯ノ峠駅に行くには、一度美祢方向に戻って山越えで国道316に迂回する必要があります。厚保駅に来たときはそういう事情を知らず、下のルートマップの様に線路沿いに抜けられないかとウロウロしてしまいました。

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湯ノ峠駅へは国道316号から厚保厚狭川と踏切りを渡って入ります。
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湯ノ峠駅は木造平屋の無人駅、待合室の出札窓口は閉鎖、自動券売機は無し。駅前には4台分くらいの駐車スペース、駐輪場は無し(と思う)、飲料自販機は駅前の商店にあり。トイレはなさそう。

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ホームは相対式2面2線で、ホーム長は127歩。対向ホームに行く跨線橋には厚保駅四郎ヶ原駅と同じように背丈ぐらいのフェンスが張ってあって、景色を楽しめません。

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建物財産標を確認できなかったけど、かつて貼ってあったと思しき跡はあります。
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こちらは駅前の商店。かつては委託販売をしていたとの事。
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美祢線:厚保駅 (あつ)

(湯ノ峠) - 厚保 - (四郎ヶ原)                 (訪問日: 2018/05/12)

四郎ヶ原駅から南は、美祢線が厚狭川の左岸(東側)に、県道33号が右岸(西側)に分かれているので、遠く川向こうに線路を確認しながら並走することになります。遠目で見て線路に並行してガードレールが見えるので、並走路があるとは思うんですが、どうも入る道が分からない。もしかしたら山の向こう側から山越えしてきた道なのかも。

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県道から厚保駅へのアプローチ。
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厚保駅は木造平屋スレート葺の無人駅。駅前広場の円形のコンクリート跡はかつてのロータリーの跡かも。駐車場区画は無いけど10台くらいの駐車スペースはあり、駐輪場は屋根付きで20台分くらい。トイレは駅舎右手に最近設置のものがあり。建物財産標は確認できず。

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待合室の出札口は閉鎖、券売機はなし。飲料自販機は広場反対側の電気屋さん前にあります。事務所は「地域交流センター」に改装されていて、この日も世話人の方が2名待機(?)されています。

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待合室には一畑薬師霊場の紹介掲示。ここからなら山陰本線一畑電鉄を乗り継いで、一畑薬師総本山に参拝に行くことも可能ですね。(行くだけで半日かかりそうですが)

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かつての駅事務所は「地域交流ステーション」になっていて、この日も世話人の方が2名待機しています。写真を撮り終わって帰ろうとしたら、コーヒーを誘われてしまいました。記録ノートで見ると昨年は280人程訪れていたそうで、コーヒーのお礼に、とりとめもない世間話をしてきました。そういえば美祢駅に入っている貨物線の事も話題になって、線路の処分にはいろいろ議論があるらしく、路線は廃止になっても線路は残すとの事。踏切りの現場では「踏切りを撤去する」と掲示してあったので、踏切り以外の部分を記念に残すという事かな。
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ホームは相対式2面2線で、ホーム長は155歩。ホーム構成や周りの木立の様子などは四郎ヶ原駅とよく似ていて、箱庭的な美しさがあります。ただし跨線橋のフェンスの高さも四郎ヶ原駅と同様に人の背丈ほどあって、こっちは真似しなくても良いのに。

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こちらは駅前広場に設置されていた、厚保駅の説明板。
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[厚保駅]
   開設年月日 明治38年9月13日
[駅名の由来]「あつ」の地名については「延喜式」(※注参照)によると「長門国 阿津、鹿野、意福……」とあり、山陽・山陰の連絡通路の駅家(ウマヤ)の所在地を示している。
「阿」は湿地の意味で、「津」は交通位置を示す地名であったようだ。
「厚保」となったのは、後の事である。
「保」は公地の行政単位の庄、郷、保とあり、その「保」で「厚」を後で加えたものであるという。
又他説によると、その昔、神功皇后三韓遠征の時"兵を集めた"とので「厚保」と言うようになったと伝えられ、近くに郷社 神功皇后神社がある。
※「延喜式」とは延喜五年(905年)、醍醐天皇の命により編集された、律(刑法)、令(行政法)、格(律令の追加法令)の施行細則
[駅近くの名所・旧跡]
  江下観音堂の仏像・原八幡宮のムクノキ。神功皇后神社のイチイガシと社叢、
  来島又兵衛の旧宅跡及び銅像
  熊野神社のスギ・古城址の本久城跡
島鉄道管理局発行「駅長さんの書いた駅名ものがたり」から一部分引用

 

確かに「厚保」と書くと「あつほ」と読んでしまいそうです。もともと「アツ」と言う地名があって「厚」と書きたいところ、例の嘉字二字令のせいで読まない「保」を追加したんではないですかねえ。

 

美祢線:四郎ヶ原駅 (しろうがはら)

(厚保) - 四郎ヶ原 - (南大嶺)                 (訪問日: 2018/05/12)

南大嶺から厚狭川に沿う美祢線に並走して、県道33号で南下します。途中、この駅名の由来になった四郎ヶ原を過ぎたあたりに、かつての赤間関街道を示す道標があり。ためしに道標に沿って行ってみると登山道の様に山間に入っているので断念。ここから赤間関(下関)まで、所々にこういう道標がある様です。

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県道33号で厚狭川沿いを下って、四郎ヶ原郵便局のある集落(四郎ヶ原駅の名前の由来?)を過ぎたところで川向こうに渡れば、四郎ヶ原駅に着きます。

四郎ヶ原駅は川沿い平地の中にある木造平屋スレート葺の無人駅。待合室は出札窓口や事務所への出入口は塞がれ少し殺風景、券売機の類は無し。駅前広場には区画は無いけど10台くらいの駐車スペースがあり。駐輪場は駅舎右手奥にあった様な気もしますが確認できず。駅にも周辺にも売店、食堂、飲料自販機はなし。トイレもなし。財産標は未確認。

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ホームは2面2線で、駅舎側のホーム長は150歩、対向ホームが187歩。
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上の写真を見直してみて思うのは、木立に囲まれた箱庭のような駅だという事。とはいえ、跨線橋には人の背丈より高いフェンスが経ててあるので、せっかくの景色を見る事が出来ません(上の写真はフェンスの上に手を伸ばして撮影した次第)。電化されている伯備線でも跨線橋には手摺しかないんだから、非電化の美祢線で、ここまでガチガチにガードしなくても、いいんじゃないですか。
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[四郎ヶ原駅]
    開設年月日 明治38年9月13日
「しろうがはらえき」と読みます。
[駅名の由来]当駅の名は、駅所在地の地名ではなく、約1.8km北側にある江戸時代の宿場名から命名されたと聞いている。
「地下上申」(※注参照)に「四郎ヶ原と言うのは、この地は広い野原であって、そこに四郎と言う者が住んでいた」とある。
※注「地下上申」とは江戸時代に編纂された地誌をいいます。18世紀(享保~宝暦年間)に、萩藩領及び各支藩領の緒村から、石高・村名由来・境目書などを藩府絵図方へ提出させたものです。
[駅近くの名所・旧跡]江の河原の石造板碑

島鉄道管理局発行「駅長さんの書いた駅名ものがたり」から一部分引用

 

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