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バイクでローカル線を巡るという、少し変なブログ

伯備線:方谷駅 (ほうこく)

(備中川面) - 方谷 - (井倉)                  (訪問日: 2018/06/02)

高梁川を川面から遡ってゆくと、だんだん渓流っぽくなってきて、方谷駅手前では簗杭が仕掛けられている場所も出てきます。

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このあたり、高梁川左岸の伯備線に並走する道路は無いので、右岸の国道から橋で渡河して方谷駅に向かいます。
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方谷駅は木造平屋瓦葺の無人駅。国の登録有形文化財です(伯備線には多い)。橋入口から駅の間に駐車スペースが2~3台ぐらい、駐輪場は確認できず。駅前には昔は宿屋と食堂があったようですが今は営業しておらず、飲料自販機だけが営業中。トイレは駅舎右手に最近のものがあります。
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駅舎左端には方谷資料館が増設されていて、方谷先生の業績紹介されていますが、実はここから駅舎の事務所側に入れます。出札窓口の事務所側から待合室を眺めるという、少し変わった視線が体験できます。

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待合室は有人駅時代の窓口が保存されていながら、ポスターや掲示物も多数。その中でも、やはり駅名になっている方谷先生にちなむポスターや案内が目立ちます。自動券売機は無し。
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改札口を出たところにホームへの階段があると思いきや、今は閉鎖中。ホームへは駅舎から右手に迂回して地下道で上がります。
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ホームは島式1面2線。ホーム長は230歩。(ところでホームに上がる地下道には、息ができない程アカタテハが群集していたけど、写真に撮ると蝶は写らないですね。人の魂が姿を変えて蝶になると誰かが言っていたけど、それだからかなあ)

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屈曲部の多い路線なので、川面、方谷、井倉とこのあたりの駅のホームはカーブばかり。

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古い国鉄時代の駅名標は駅舎のホーム側にかかっていました。
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駅舎入口にある、駅や周囲名所の案内板。確かに個人名を付けた国鉄の駅名は思いつかないですね。(四郎ヶ原とか伝承的な人名の名前は結構ありそうですけど) ところで文中にある大佐町小阪部は、姫新線刑部駅丹治部駅の間のあたりだと思います。そこにも方谷記念館がありますから。
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備中松山藩儒「山田方谷」生誕の地案内
方谷駅名の由来
伯備線開通当時(昭和三年)鉄道省は、駅名を地名である中井・西方または、長瀬の中からと考えていた。しかし地元としては、山田方谷の名を方谷駅として残したいという強い願いがあった。
そこで方谷というのは、西方の谷の事で人命ではないと、陳情を重ね遂に、当時としては全国唯一の「方谷駅」という人名駅が誕生した。
・長瀬塾(跡碑)
山田方谷は、備中松山藩の元締役を退いたのちの一八五九年(安政六年)五十五歳の時、土着政索を自ら実践するため、この地に(方谷駅構内)移住した。この年、後に藩政改革で功績を上げた、長岡藩士(現在の新潟県長岡市)河井継之助が訪れている。
一八六九年(明治二年)塾舎を増築して子弟教育に努めていたが、亡母の霊を慰めるため大佐町小阪部に住居を移転し、長瀬塾は嗣子耕蔵に託した。一八八一年(明治十四年)耕蔵没後、遺族は元の山田家跡(高梁市中井町西方)に移った。
一九二〇年(大正九年)山田方谷縁の人々は、旧宅跡が分からなくなることを恐れて屋敷跡に「山田方谷先生旧宅跡」と石碑を建てた。一九二八年(昭和三年)伯備線敷設に伴い、石碑を現在の場所へ移設した。
・方谷園(ここより北東6km)
時の上房郡教育委員会が発起し、山田方谷を追慕する多くの人々の寄付金と、中井村民の奉仕によって先生の墓前に公園を設け、その遺徳を末永く後世に伝えたいと念願して一九一〇年(明治四十三年)に造営された。園内には、三島中洲撰文の方谷園記碑・茶席倚松庵・風神亭・齏月亭・からかさ亭などがあり、入口には犬養木堂書の「方谷園」の石碑がある。
・報告資料展示室(ここより北東に約6㎞)
方谷の里ふれあいセンター管内に展示室を設け、報告四歳の遺墨(板額)を始めとする関連資料や、報告の生涯を分かりやすく収録した映像が放映されている。
    (中井地域まちづくり推進委員会) 

 

駅の横には方谷旧宅と長瀬塾の記念碑。
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山田方谷旧宅及び長瀬塾跡
この付近には、かつて山田方谷(備中松山藩士・漢学者1805~1877)居宅があり、川沿いには十数本の松が並んでいて、対岸へは専用の渡し舟で渡っていました。報告は藩政改革を成し遂げた後、領内の守備と耕作地開拓のため藩士を移住させる「在宅土着」の理念を実行しようと、藩主に願い出て安政6年(1859)に備中松山城下からここに移り住みました。月の内、半分は藩の仕事で城下に出向き、残りは対岸の山などを開墾しました。また、この年、長岡藩士河井継之助(1827~1868)が報告の教えを請いにこの地を訪れています。
方谷は政治から手を引いた、明治元年(1868)私塾・長瀬塾を開きました。彼に学びたい人々が次々に集まり、塾では学問と同時に人間教育が実践されました。当時の名簿には63人の名前が記載されていますが、実際にはもっと多くの塾生が学んでいたといわれています。
学規(塾のきまり)も5か条定められていました。要約すると次のようになります。
1.1日と5の付く日は休みとする。しかし、起床・消灯は平日と同じにする。
2.帰省及び遠出の他は外泊してはいけない。理由があって帰れない時は報告する。
3.毎朝、先祖・父母に向かってあいさつを欠かさない。これを怠るものは退学を命ずる。
4.秋冬にはしっかり読書する。
5.寮内を清潔にし、傘、履物などよく整頓し、決して他人のものは使用しない。

高梁市教育委員会

 

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