(厚保) - 四郎ヶ原 - (南大嶺) (訪問日: 2018/05/12)
南大嶺から厚狭川に沿う美祢線に並走して、県道33号で南下します。途中、この駅名の由来になった四郎ヶ原を過ぎたあたりに、かつての赤間関街道を示す道標があり。ためしに道標に沿って行ってみると登山道の様に山間に入っているので断念。ここから赤間関(下関)まで、所々にこういう道標がある様です。
県道33号で厚狭川沿いを下って、四郎ヶ原郵便局のある集落(四郎ヶ原駅の名前の由来?)を過ぎたところで川向こうに渡れば、四郎ヶ原駅に着きます。
四郎ヶ原駅は川沿い平地の中にある木造平屋スレート葺の無人駅。待合室は出札窓口や事務所への出入口は塞がれ少し殺風景、券売機の類は無し。駅前広場には区画は無いけど10台くらいの駐車スペースがあり。駐輪場は駅舎右手奥にあった様な気もしますが確認できず。駅にも周辺にも売店、食堂、飲料自販機はなし。トイレもなし。財産標は未確認。
ホームは2面2線で、駅舎側のホーム長は150歩、対向ホームが187歩。
上の写真を見直してみて思うのは、木立に囲まれた箱庭のような駅だという事。とはいえ、跨線橋には人の背丈より高いフェンスが経ててあるので、せっかくの景色を見る事が出来ません(上の写真はフェンスの上に手を伸ばして撮影した次第)。電化されている伯備線でも跨線橋には手摺しかないんだから、非電化の美祢線で、ここまでガチガチにガードしなくても、いいんじゃないですか。
[四郎ヶ原駅]
開設年月日 明治38年9月13日
「しろうがはらえき」と読みます。
[駅名の由来]当駅の名は、駅所在地の地名ではなく、約1.8km北側にある江戸時代の宿場名から命名されたと聞いている。
「地下上申」(※注参照)に「四郎ヶ原と言うのは、この地は広い野原であって、そこに四郎と言う者が住んでいた」とある。
※注「地下上申」とは江戸時代に編纂された地誌をいいます。18世紀(享保~宝暦年間)に、萩藩領及び各支藩領の緒村から、石高・村名由来・境目書などを藩府絵図方へ提出させたものです。
[駅近くの名所・旧跡]江の河原の石造板碑広島鉄道管理局発行「駅長さんの書いた駅名ものがたり」から一部分引用