tkmov(バイクとローカル線と)

バイクでローカル線を巡るという、少し変なブログ。訪問駅のリストは、カテゴリ「事務連絡」の中の「駅名リストのリスト」から辿る事が出来ます。

姫新線:沿線-旧遷喬尋常小学校 (せんきょう)

予定がボッカリ開いてしまった休日、姫新線を新見側から見て回ったので駅訪問記は後日アップ予定。その中で印象に残った洋風校舎の小学校を紹介します。 (訪問日: 2018/06/17)

久世駅の隣りの休憩所「木テラス」の案内地図で、近くに昔の遷喬尋常小学校校舎が保存されている事を知ったので寄り道。駅からは国道181号で津山方向に1km程東進したあたり、市役所本庁舎や公会堂のある久世の中心部にあります。

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かつての校庭の奥に建つ明治洋風校舎は今の目で見ても立派なもの、出来た時は地元の誇りだったでしょう。しかもこの校舎が平成2年まで現役だったというのも、大したものです。でも最近まで遷喬小学校として使っていたなら、「旧尋常小学校」と言わず、「旧遷喬小学校校舎」と言っても良いんでは? それとも「尋常小学校」と言った方が古風なイメージで人を呼べると思ったのかな。  と、そういうつまらない事を考えながら、玄関前で帰る算段をしていたら、事務方の人に見学するように誘われてしまいました。(夕食の準備に帰らないといけなかったんですが)

林業の盛んな土地柄か、廊下の板張りも幅広だし(自分の母校の廊下はもっと細い建材だったと思う)、階段手摺の飾りや天井格子など手の込んだ造りです。平成初期まで使っていたので教室はある意味見慣れた(でも木造で懐かしい)造りですが、両翼端の部屋は和風の書院造りであったりして、明治の建築だという事を思い出させます。

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階段は昔の旅館や民家にありそうな廻り階段。
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2階中央部には、格子天井を備えた講堂。(こういう室内を撮影する場合、カシオ FR100は14mmの広角なので便利)
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講堂に続いて教室を撮ろうとしたら、セーラー服の女性が居て何やら撮影会になっている模様。実は1階の事務所で学ランやセーラー服を貸し出していて(更衣室も完備、この日も使用中の掲示有り)、それを着て「古い木造校舎にやってきた昔の女学生」という倒錯した写真を撮ることができるらしい(いまどき、黒一色のセーラー服の女子高生は、そうそう居るものじゃないですからね)。何か「ゆめのかよいじ*1のリアル・コスプレみたいな感じ。

でも教室や机椅子が小学生サイズなので、そこにコスプレ女学生が来ると、変に倒錯した妖しげな写真になるような気がします。
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玄関に掲げられている小学校の由緒書。この難しい校名の由来も書いてありますが、ここにも方谷先生の足跡が。美作に於ける方谷先生の影響は本当に大きなものがあります。

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国指定重要文化財
旧遷喬(せんきょう)尋常小学校
    平成十一年五月十三日指定

 遷喬小学校は明治七年に大庭郡久世村にあった御蔵を転用して開学した。学校名は中国の古典である「詩経」の一節である「出自幽谷 遷干喬木」から教育者の山田方谷が命名した。その後、建物の老朽化と生徒数の増加に伴い新築することになり、明治三十八年七月に着工し同四十年七月に完成した。
 木造二階建で中央部を大きくつくり東西両翼棟を左右対称に配置する。屋根は、棟に寄棟の小部屋を置き、正面は左右対称に突出させた切妻屋根を設ける。屋根材は、当初は天然スレート葺であったが、後に中央部以外は桟瓦葺になった。外壁は、下見板張りを基本とし、筋交いをアクセントで入れる。基礎は煉瓦積みで花崗岩の切石を土台とする。設計は県の工師であった江川三郎八、監督は江川工師の紹介による中村錠太郎、施工は高橋岩吉である。なお、正面の屋根窓に描かれている校章は高瀬舟をデザイン化したものだが「久世」の文字が織り込まれている。この校章は、江川工師自身が考案し採用されたものである。
 学校建築の基本が定まった後の学校建築の典型例として、また中国地方の学校建築の歴史を知る上で貴重である。
        真庭市教育委員会 

 

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*1:大野安之著 1987~88連載の漫画。古い木造校舎の高校に転校してきた女子高生と、昭和初年から校舎に憑く女学生の幽霊を介した、「開けられずに忘れられてしまった、ひきだしのような町」の話

美祢線:南大嶺駅 (みなみおおみね)

(四郎ヶ原) - 南大嶺 - (美祢)                  (訪問日: 2018/05/12)

美祢駅の南なのでこういう駅名なのかと思ったら、昔は伊佐駅という名前だったそうで、今は無き大嶺駅の南なので「南大嶺駅」だそうです。なかなか複雑な由来の駅です。

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「みなみおおみねえき」と読みます。
[駅名の由来]「開設当時は大嶺線中最大の交通の中心地点であったので、駅付近の著名な地名である伊佐(当駅から北に約4km)をもって伊佐駅と名付けられた。」
 もともと軍事上から、旧大嶺駅からの無煙炭輸送を主目的に建設された当駅もその後、大正9年10月重安~於福間、次いで大正13年3月於福~正明市(長門市)間が開通し、厚狭~正明市間の全線が開通となって、この総てを美祢線と呼称する事になり、陰陽連絡路線として「政治・経済」・文化の発展に大きく寄与してきました。
 大正14年7月に当駅からかなりの距離がある伊佐町にも至近距離に吉則駅が誕生してからは、旅客・貨物の取扱上から、種々不都合が生ずる為に駅名改称の世論も漸く活発になり昭和24年1月に、無煙炭取扱駅として名のある大嶺駅の南に位置するところから南大嶺と改称して今日に至っている。
[駅近くの名所・旧跡] 日永の殲法講板碑・藤ヶ河内の自然石板碑・美祢炭鉱の荒川水平坑・古城址の殿山城跡
 広島鉄道管理局発行「駅長さんの書いた駅名ものがたり」から一部引用

確かに「伊佐駅」と言われても、伊佐の地名は美祢駅の東側、美祢ICの近くなので混乱しそうですね。

県道から少し奥まった旧道にある南大嶺駅無人駅で自動券売機、飲料自販機はなし(駅前に雑貨屋があり)、トイレも非設置。区画は無いけど駅前に10台くらいの駐車スペースがあり、何台かは近所の駐車場代わりになっている様子。駐輪場は確認できず。

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ホームは島式1面2線。かつては2面3線で駅舎側が1番ホームが大嶺支線だったそうですが、今では旧1番線が埋められてホームに拡幅されています。島式ホームはホーム長=155歩。
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下の写真は跨線橋からみた美祢駅方面。
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下の写真は、島式ホームと、駅舎前の旧1番線ホームの駅名標。1番線のは「おおみね」と書いてあったのを「みね」に書換えて再利用。
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建物財産標は駅舎では確認できず、詰所とホーム上待合所のものです。待合所のは平成に入ってのものですが既にこんなに古びているいます。でも考えてみればほぼ30年経つと思えば、平成も過去になりつつあるのを実感します。

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駅舎に掲示されていた駅写真の募集ポスター。応募できる写真はいくつもあるけど、こういうのに食指が働かないのは、やはり私に鉄分が無い証拠ですな。

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山陰本線:五十猛駅 (いそたけ)

(静間) - 五十猛 - (仁万)                  (訪問日: 2018/06/09)

此のあたりの山陰本線は沿線道路とは添い遂げるつもりが無く、独立独歩で山間を抜けてゆきます。(逆に言えば線路を引けるようにRを抑えられる道が無かった、という事でしょう) そういう訳で線路を離れた旧道に行くと、岬に挟まれた浦々に小さな漁港が続く風景です。まあ、こういう海岸沿いの道も岬で途切れてしまうんですけど。

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で再び国道9号に戻って、五十猛駅手前で振り返ると見える大崎ケ鼻の岬。この日は強風で白波を写そうとしたけど、この逆光では何もわかりませんね。
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五十猛も山と海に挟まれた集落で、国道9号のバイパスは砂浜ギリギリの海沿いの岩山をトンネルで抜けて直進するので、五十猛駅に行くには集落手前でバイパスを降りて旧道から入ります。(下はプラットホームから見た国道9号のトンネル)
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五十猛駅はホーム上の待合室だけの無人駅(昔の写真をみると、静間駅に似た木造駅舎がこの空地に建っていたらしい)。ホームへは築堤下のトンネルを通りますが、時刻表などの掲示物もトンネルに貼ってあります。駅前広場には10台くらいの駐車スペース、駐輪場は5台分のスタンド有り。

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ホーム上の待合室と太田駅方向の風景。ホーム長は151歩。
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こちらはホームから見た江津方面
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ホームから見た駅前広場、昔はここに駅舎があったのか。駅前には雑貨店らしき店がありますが、今は閉店している様子。
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山陰本線:仁万駅 (にま)

(五十猛) - 仁万 - (馬路)                   (訪問日: 2018/06/09)

鳴き砂で有名な琴が浜は馬路駅前でしたが、そこの砂を使った大砂時計があるのは、ここ仁万サンドミュージアム。仁万の街が少し内陸に入り込んでいるので、ミュージアムも浜辺から離れた所にあるんですよね。

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サンドミュージアム前の国道9号を少し進んだところで、線路を越えて海側から仁万駅に入ります。下の写真は仁万駅前通りの様子。
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この地域はかつて「邇摩(にま)郡」「仁摩(にま)町」ですが、小字名は「仁万」なので駅名は「仁万駅」。ああ、ややこしい。仁万があまり大きい街というイメージが無かったのですが、意外なことに(失礼!) 仁万駅は有人駅(営業時間は7:00~18:00)。木造平屋瓦葺で、瓦は山陰でよく見るJRマーク付きの青瓦。自動券売機あり、トイレあり。駅前に送迎用に2~3台の駐車スペースあり、駐輪場は駅舎左手に屋根付きで約100台。駐輪場の先には(たぶん契約車用の)駐車場あり。建物財産標は確認できず。

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待合室にあったらしいキオスク跡には自販機と、仁摩タクシーの事務所がはいっています。その他に売店・食堂は無く、駅前の売店も閉店中の様子。まあ国道9号まで出ればロードサイド店がいくつかあります。

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ホームは島式ホーム1面2線、ホーム上には木造待合室があり。ホーム長は179歩。下の写真は江津方面と大田市方面。

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山陰本線:馬路駅 (まじ)

(仁万) - 馬路 - (湯里)                  (訪問日: 2018/06/09)

湯里駅山陰本線と並走していた国道9号が馬路駅では再び山側に離れてしまうので、脇道から海岸線へ出て馬路駅に向かいます。家並の向こうに見える砂浜は鳴き砂で有名な琴が浜です。

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馬路集落の中の馬路駅入口付近。ここから右の山側が駅、突き当りを左に行くと琴が浜。
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集落から坂を上って少し曲がって広場に出たところが駅前。この駅への入り方、駅前の家々の佇まい、ホームから浜と海が見えるところも黒松駅とよく似た雰囲気です。昔の駅舎跡の隣に古いトイレが残っていて、ホームに待合室が1棟建っている所もそっくり。駅舎跡に4~5台程度は駐車可、屋根付き駐輪場が10台分。見ての通り無人駅で自動券売機も飲料自販機もなし。近所に食堂・売店もなし。(駅前の家は運送屋さんの看板が出てますが)

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ホームは島式1面2線で、ホーム長は151歩。

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Wikipediaにはホーム上に乗車駅証明書発券機があると書いてますが、待合所の中にも見当たりません。(というか山陰本線ではまだ見たことが無いなあ)

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線路沿いのトイレの奥には詰所が残っています。この詰所とトイレは昭和末の昔の写真にも同じように映っているので、そのころからの建物ですね。
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 ホームから見える城上山と高山。湯里から仁万にかけて、道すがらよく見えます。

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山陰本線:湯里駅 (ゆさと)

(馬路) - 湯里 - (温泉津)                 (訪問日: 2018/06/09)

温泉津駅から北は、山陰本線は少し山側に入り込んで国道9号とほぼ並走、国道9号も広くて快走できます。で、ちょうど並走していた大田方面行き列車が下の写真(走りながらなので、どうしてもアングルが苦しいのはご容赦)

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湯里駅は新しそうな駅舎(Wikipediaによれば2004年に建て替え)の無人駅、券売機や改札などの駅業務機能は無く、構造はちょっと違うけど雰囲気は石見福光駅と似てます。駅前の空地には4~5台駐車可、駅舎左手が駐輪場になっていて10台くらいのスペースがあります。(駅舎にトイレがあった様な気がしますが、確認し損ねました) 今は線路と国道がほぼ同じ高さですが、昔の写真を見ると道路がもっと低くて線路盛土の下の方に駅舎があったようです。

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ホームは1面1線でホーム長は144歩。
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こちらは国道からの入口にある「ヨズクハデの里」紹介の看板。といっても、これだけみても余所者には何のことか分からないと思う。私もローカルニュースで見るまで知らなかったんだから。(こういのは地域ごとに呼び名が全然違いますからね)

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山陰本線:沿線-温泉津 波路浦

(訪問日: 2018/06/09)

石見福光駅から温泉津駅山陰本線は山間をトンネルで抜けてゆくので、沿道も山道ワインディングコースになるのですが、そうして山越えをして温泉津の里に降りてきたと思ったら、急に漁船が並ぶ小さな漁港に出ます。

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地図で見ると温泉津港の入江の、さらに枝別れした入江で浪路浦というらしい。それまで急坂の山道を上り下りしてきたところに、急に漁船がずらっと並ぶ船溜まりに出て来くるのだから意表を突かれてしまいます。温泉津の街には右の道で山際を巻いて進んだ先にあります。
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下は温泉津へ行く道から船溜まりを振り返った所。
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浪路浦から見た温泉津港。温泉津駅は右端に見える集落から更に向こう。
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山陰本線:静間駅 (しずま)

(大田市) - 静間 - (五十猛)                   (訪問日: 2018/05/01)

静間駅は入口が海側、太田の方から国道9号で来ると間にある山を迂回しないと駅に入れないので、少し迷います。

木造平屋瓦葺の無人駅(波根、久手駅よりも一部屋分くらい大きい)、自動券売機、自販機はなし (自販機は駅前の閉店中売店前にあり)。駅前広場に数台の駐車は可能、駐輪場の区画は無く空地に適当に駐輪。トイレは駅舎右手の増設部分にあり(簡易水洗)。駅舎にも周囲にも売店、食堂は無し。

駅舎の事務所は静間駅会館という公民館になっており、その奥(駅舎向かって左側)は何かのアトリエでプロパンボンベがある所を見ると住居兼用になっているのかも。

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ホームは駅舎側の1面1線ですが、対向ホームの遺構あり。ホーム長は151歩。

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駅舎にアクリル製建物財産標と木製財産標(?)がついている珍しい例。木製が付いていたのは出窓横の柱上 (下の写真参照)。

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ここの駅舎の瓦もJRマーク付き。
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こっちはホーム真ん中あたりにあった、何かの基準標。
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山陰本線:波根駅 (はね)

(田儀) - 波根 - (久手)                   (訪問日: 2018/05/01)

掛戸松島から海岸沿いの県道を通って波根駅へ。駅の周りや駅そのものも久手駅とそっくり。違いと言えば、ここの駅舎前の植栽が松で、待合室の出札窓口が昔のままの木製だというくらい。あとはホームが島式1面2線というところ。

駅舎は海向きで木造平屋瓦葺(JRマーク付き)、無人駅で券売機は無し。待合室にはトイレ設置。駅前に駐車区画は無いけど5~6台程度駐車可。駐輪場は駅舎右手に屋根付きで約20台分。売店、食堂は駅舎、周囲にも見当たらず。海水浴シーズンなら何か店があるかも。建物財産標は駅舎では未確認、ホーム上の待合所で確認。

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ホームは島式ホーム1面2線。ホーム長は157歩。下はホームから見た出雲方向と大田市方向。
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作家 芥川龍之介下車来遊の地
 波根駅が開業したのは大正四年七月十一日である。それから間もない八月のある日、芥川龍之介は第一高等学校以来の親友、井川恭(松江出身)と共にこの停車場に降り水月亭に宿をとった。(井川恭28才、芥川龍之介24才の時である)

 二人は海にのぞんだ椽に腰掛け、眺望の素敵さに「佳いね!ほんとにいいね!今夜ここへ来てよかった。」とお互いに言い続けた。
 夕方の海に飛び込み浪のうえに手足を浮かせ水の思うままに揺さぶられていた。ちょうどその折、太陽は海の涯に沈んでいった。「あっ、うつくしい!」二人はうれしくてたまらないように叫び「日の終焉」の栄をほめたたえた。
 明くる朝、鰐走り(掛戸)まで散歩し正午過ぎの汽車に乗り二人は今市に向かった。
「愛すべき波根の村よ!美しかった昨夕の日没よ!」と心の中にさけびながらトンネルに入った。
    (井川恭著「翡翠記」による)

芥川の訪れた時代と変わらず、駅の目の前はすぐに海水浴場の砂浜です。

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山陰本線:沿線-掛戸松島

大田市駅で少し内陸に入っていた山陰本線が、久手駅を過ぎて波根の手前でググッと海岸線に近づいたところが名勝 掛戸松島です。

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f:id:tkmov:20180604232343j:plain 海岸線に立つ案内板

大田市指定名勝
掛戸松島
      平成五年三月十七日指定
      久手町波根西海岸(国有地)
 久手駅から徒歩で波根西海岸へ約十分位の所に要害山と梶山の切割から日本海に浮かぶ「掛戸松島」を望むことができる。
 この松島は鎌倉時代、徳治元年(1306年)地元の郷士有馬次郎左衛門一政と、二代目の次郎左衛門宗茂が千数百人の夫役を指揮して七ヶ年余の歳月を費やして開掘した所である。
当時波根湖は増水期になると水が氾濫して住民は難渋しており、度々の災害に遂に山岳を開掘して、湖水の水を日本海へ疎水することを遂行したのである。
 今は海水の浸食によって人工の跡はほとんど分からなくなっているが、奇岩、怪石が海中に散乱しており、六七八年前の難工事がしのばれる。
 日本海の波間にすくっと立っている松島の絶景は、明治四十年五月二十八日大正天皇東宮殿下の時、山陰行啓の折にしばしばご高覧され、昭和六年夏には簸川郡高松村出身の日本画家竹田霞村が「掛戸松島」を描いて広く世に紹介して以来「石東の名所」とよばれている。
  平成六年三月三十一日設置
     太田市教育委員会

(松島左右の山の名に、要害山、梶山と出ていますが、要害山は内陸部の出雲市境に近い山の名です。地形図(1/25,000)でも山名は出てないし、ちょっと疑問です)

 

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上の写真は国道9号からみた掛戸松島の遠景。正面で日本海を遮るように立つ屏風のような山が2つ、その間の隙間が掛戸の切割で、かすかに松島の細長い影が見えます。山陰本線はこの山体の内陸側をかすめて通っています。山の左右は砂丘由来の微高地で久手と波根の集落がのっていますから、ここから見れば山の間の隙間を開堀しようという気になったんでしょうね。 で開堀した結果、手前の平地が干拓されたのかというとそうではなくて、ここにあった波根湖が干拓されたのは昭和25年。(島根県 農村整備課HPより)。という事は、大正天皇行啓の頃は、日本海と波根湖に挟まれた砂州上の山陰本線から松島を見ていたのでしょう。

 

ところで奇岩以外に気になると言えば、手前の山陰本線橋梁の奥にある石組みの基礎。横から見ると防波堤の様にも見えるし、昔の橋脚跡の様にも見えるし。

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