tkmov(バイクとローカル線と)

バイクでローカル線を巡るという、少し変なブログ。訪問駅のリストは、カテゴリ「事務連絡」の中の「駅名リストのリスト」から辿る事が出来ます。

美祢線:湯ノ峠駅 (ゆのとう)

(厚狭) - 湯ノ峠 - (厚保)                     (訪問日: 2018/05/12)

美祢線はずっと厚保厚狭川沿いなのですが、厚保駅から南は川に山が迫っていて川沿いの道がありません。なので厚保駅の次の湯ノ峠駅に行くには、一度美祢方向に戻って山越えで国道316に迂回する必要があります。厚保駅に来たときはそういう事情を知らず、下のルートマップの様に線路沿いに抜けられないかとウロウロしてしまいました。

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湯ノ峠駅へは国道316号から厚保厚狭川と踏切りを渡って入ります。
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湯ノ峠駅は木造平屋の無人駅、待合室の出札窓口は閉鎖、自動券売機は無し。駅前には4台分くらいの駐車スペース、駐輪場は無し(と思う)、飲料自販機は駅前の商店にあり。トイレはなさそう。

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ホームは相対式2面2線で、ホーム長は127歩。対向ホームに行く跨線橋には厚保駅四郎ヶ原駅と同じように背丈ぐらいのフェンスが張ってあって、景色を楽しめません。

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建物財産標を確認できなかったけど、かつて貼ってあったと思しき跡はあります。
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こちらは駅前の商店。かつては委託販売をしていたとの事。
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美祢線:厚保駅 (あつ)

(湯ノ峠) - 厚保 - (四郎ヶ原)                 (訪問日: 2018/05/12)

四郎ヶ原駅から南は、美祢線が厚狭川の左岸(東側)に、県道33号が右岸(西側)に分かれているので、遠く川向こうに線路を確認しながら並走することになります。遠目で見て線路に並行してガードレールが見えるので、並走路があるとは思うんですが、どうも入る道が分からない。もしかしたら山の向こう側から山越えしてきた道なのかも。

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県道から厚保駅へのアプローチ。
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厚保駅は木造平屋スレート葺の無人駅。駅前広場の円形のコンクリート跡はかつてのロータリーの跡かも。駐車場区画は無いけど10台くらいの駐車スペースはあり、駐輪場は屋根付きで20台分くらい。トイレは駅舎右手に最近設置のものがあり。建物財産標は確認できず。

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待合室の出札口は閉鎖、券売機はなし。飲料自販機は広場反対側の電気屋さん前にあります。事務所は「地域交流センター」に改装されていて、この日も世話人の方が2名待機(?)されています。

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待合室には一畑薬師霊場の紹介掲示。ここからなら山陰本線一畑電鉄を乗り継いで、一畑薬師総本山に参拝に行くことも可能ですね。(行くだけで半日かかりそうですが)

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かつての駅事務所は「地域交流ステーション」になっていて、この日も世話人の方が2名待機しています。写真を撮り終わって帰ろうとしたら、コーヒーを誘われてしまいました。記録ノートで見ると昨年は280人程訪れていたそうで、コーヒーのお礼に、とりとめもない世間話をしてきました。そういえば美祢駅に入っている貨物線の事も話題になって、線路の処分にはいろいろ議論があるらしく、路線は廃止になっても線路は残すとの事。踏切りの現場では「踏切りを撤去する」と掲示してあったので、踏切り以外の部分を記念に残すという事かな。
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ホームは相対式2面2線で、ホーム長は155歩。ホーム構成や周りの木立の様子などは四郎ヶ原駅とよく似ていて、箱庭的な美しさがあります。ただし跨線橋のフェンスの高さも四郎ヶ原駅と同様に人の背丈ほどあって、こっちは真似しなくても良いのに。

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こちらは駅前広場に設置されていた、厚保駅の説明板。
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[厚保駅]
   開設年月日 明治38年9月13日
[駅名の由来]「あつ」の地名については「延喜式」(※注参照)によると「長門国 阿津、鹿野、意福……」とあり、山陽・山陰の連絡通路の駅家(ウマヤ)の所在地を示している。
「阿」は湿地の意味で、「津」は交通位置を示す地名であったようだ。
「厚保」となったのは、後の事である。
「保」は公地の行政単位の庄、郷、保とあり、その「保」で「厚」を後で加えたものであるという。
又他説によると、その昔、神功皇后三韓遠征の時"兵を集めた"とので「厚保」と言うようになったと伝えられ、近くに郷社 神功皇后神社がある。
※「延喜式」とは延喜五年(905年)、醍醐天皇の命により編集された、律(刑法)、令(行政法)、格(律令の追加法令)の施行細則
[駅近くの名所・旧跡]
  江下観音堂の仏像・原八幡宮のムクノキ。神功皇后神社のイチイガシと社叢、
  来島又兵衛の旧宅跡及び銅像
  熊野神社のスギ・古城址の本久城跡
島鉄道管理局発行「駅長さんの書いた駅名ものがたり」から一部分引用

 

確かに「厚保」と書くと「あつほ」と読んでしまいそうです。もともと「アツ」と言う地名があって「厚」と書きたいところ、例の嘉字二字令のせいで読まない「保」を追加したんではないですかねえ。

 

美祢線:四郎ヶ原駅 (しろうがはら)

(厚保) - 四郎ヶ原 - (南大嶺)                 (訪問日: 2018/05/12)

南大嶺から厚狭川に沿う美祢線に並走して、県道33号で南下します。途中、この駅名の由来になった四郎ヶ原を過ぎたあたりに、かつての赤間関街道を示す道標があり。ためしに道標に沿って行ってみると登山道の様に山間に入っているので断念。ここから赤間関(下関)まで、所々にこういう道標がある様です。

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県道33号で厚狭川沿いを下って、四郎ヶ原郵便局のある集落(四郎ヶ原駅の名前の由来?)を過ぎたところで川向こうに渡れば、四郎ヶ原駅に着きます。

四郎ヶ原駅は川沿い平地の中にある木造平屋スレート葺の無人駅。待合室は出札窓口や事務所への出入口は塞がれ少し殺風景、券売機の類は無し。駅前広場には区画は無いけど10台くらいの駐車スペースがあり。駐輪場は駅舎右手奥にあった様な気もしますが確認できず。駅にも周辺にも売店、食堂、飲料自販機はなし。トイレもなし。財産標は未確認。

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ホームは2面2線で、駅舎側のホーム長は150歩、対向ホームが187歩。
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上の写真を見直してみて思うのは、木立に囲まれた箱庭のような駅だという事。とはいえ、跨線橋には人の背丈より高いフェンスが経ててあるので、せっかくの景色を見る事が出来ません(上の写真はフェンスの上に手を伸ばして撮影した次第)。電化されている伯備線でも跨線橋には手摺しかないんだから、非電化の美祢線で、ここまでガチガチにガードしなくても、いいんじゃないですか。
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[四郎ヶ原駅]
    開設年月日 明治38年9月13日
「しろうがはらえき」と読みます。
[駅名の由来]当駅の名は、駅所在地の地名ではなく、約1.8km北側にある江戸時代の宿場名から命名されたと聞いている。
「地下上申」(※注参照)に「四郎ヶ原と言うのは、この地は広い野原であって、そこに四郎と言う者が住んでいた」とある。
※注「地下上申」とは江戸時代に編纂された地誌をいいます。18世紀(享保~宝暦年間)に、萩藩領及び各支藩領の緒村から、石高・村名由来・境目書などを藩府絵図方へ提出させたものです。
[駅近くの名所・旧跡]江の河原の石造板碑

島鉄道管理局発行「駅長さんの書いた駅名ものがたり」から一部分引用

 

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姫新線:沿線-旧遷喬尋常小学校 (せんきょう)

予定がボッカリ開いてしまった休日、姫新線を新見側から見て回ったので駅訪問記は後日アップ予定。その中で印象に残った洋風校舎の小学校を紹介します。 (訪問日: 2018/06/17)

久世駅の隣りの休憩所「木テラス」の案内地図で、近くに昔の遷喬尋常小学校校舎が保存されている事を知ったので寄り道。駅からは国道181号で津山方向に1km程東進したあたり、市役所本庁舎や公会堂のある久世の中心部にあります。

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かつての校庭の奥に建つ明治洋風校舎は今の目で見ても立派なもの、出来た時は地元の誇りだったでしょう。しかもこの校舎が平成2年まで現役だったというのも、大したものです。でも最近まで遷喬小学校として使っていたなら、「旧尋常小学校」と言わず、「旧遷喬小学校校舎」と言っても良いんでは? それとも「尋常小学校」と言った方が古風なイメージで人を呼べると思ったのかな。  と、そういうつまらない事を考えながら、玄関前で帰る算段をしていたら、事務方の人に見学するように誘われてしまいました。(夕食の準備に帰らないといけなかったんですが)

林業の盛んな土地柄か、廊下の板張りも幅広だし(自分の母校の廊下はもっと細い建材だったと思う)、階段手摺の飾りや天井格子など手の込んだ造りです。平成初期まで使っていたので教室はある意味見慣れた(でも木造で懐かしい)造りですが、両翼端の部屋は和風の書院造りであったりして、明治の建築だという事を思い出させます。

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階段は昔の旅館や民家にありそうな廻り階段。
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2階中央部には、格子天井を備えた講堂。(こういう室内を撮影する場合、カシオ FR100は14mmの広角なので便利)
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講堂に続いて教室を撮ろうとしたら、セーラー服の女性が居て何やら撮影会になっている模様。実は1階の事務所で学ランやセーラー服を貸し出していて(更衣室も完備、この日も使用中の掲示有り)、それを着て「古い木造校舎にやってきた昔の女学生」という倒錯した写真を撮ることができるらしい(いまどき、黒一色のセーラー服の女子高生は、そうそう居るものじゃないですからね)。何か「ゆめのかよいじ*1のリアル・コスプレみたいな感じ。

でも教室や机椅子が小学生サイズなので、そこにコスプレ女学生が来ると、変に倒錯した妖しげな写真になるような気がします。
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玄関に掲げられている小学校の由緒書。この難しい校名の由来も書いてありますが、ここにも方谷先生の足跡が。美作に於ける方谷先生の影響は本当に大きなものがあります。

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国指定重要文化財
旧遷喬(せんきょう)尋常小学校
    平成十一年五月十三日指定

 遷喬小学校は明治七年に大庭郡久世村にあった御蔵を転用して開学した。学校名は中国の古典である「詩経」の一節である「出自幽谷 遷干喬木」から教育者の山田方谷が命名した。その後、建物の老朽化と生徒数の増加に伴い新築することになり、明治三十八年七月に着工し同四十年七月に完成した。
 木造二階建で中央部を大きくつくり東西両翼棟を左右対称に配置する。屋根は、棟に寄棟の小部屋を置き、正面は左右対称に突出させた切妻屋根を設ける。屋根材は、当初は天然スレート葺であったが、後に中央部以外は桟瓦葺になった。外壁は、下見板張りを基本とし、筋交いをアクセントで入れる。基礎は煉瓦積みで花崗岩の切石を土台とする。設計は県の工師であった江川三郎八、監督は江川工師の紹介による中村錠太郎、施工は高橋岩吉である。なお、正面の屋根窓に描かれている校章は高瀬舟をデザイン化したものだが「久世」の文字が織り込まれている。この校章は、江川工師自身が考案し採用されたものである。
 学校建築の基本が定まった後の学校建築の典型例として、また中国地方の学校建築の歴史を知る上で貴重である。
        真庭市教育委員会 

 

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*1:大野安之著 1987~88連載の漫画。古い木造校舎の高校に転校してきた女子高生と、昭和初年から校舎に憑く女学生の幽霊を介した、「開けられずに忘れられてしまった、ひきだしのような町」の話

美祢線:南大嶺駅 (みなみおおみね)

(四郎ヶ原) - 南大嶺 - (美祢)                  (訪問日: 2018/05/12)

美祢駅の南なのでこういう駅名なのかと思ったら、昔は伊佐駅という名前だったそうで、今は無き大嶺駅の南なので「南大嶺駅」だそうです。なかなか複雑な由来の駅です。

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「みなみおおみねえき」と読みます。
[駅名の由来]「開設当時は大嶺線中最大の交通の中心地点であったので、駅付近の著名な地名である伊佐(当駅から北に約4km)をもって伊佐駅と名付けられた。」
 もともと軍事上から、旧大嶺駅からの無煙炭輸送を主目的に建設された当駅もその後、大正9年10月重安~於福間、次いで大正13年3月於福~正明市(長門市)間が開通し、厚狭~正明市間の全線が開通となって、この総てを美祢線と呼称する事になり、陰陽連絡路線として「政治・経済」・文化の発展に大きく寄与してきました。
 大正14年7月に当駅からかなりの距離がある伊佐町にも至近距離に吉則駅が誕生してからは、旅客・貨物の取扱上から、種々不都合が生ずる為に駅名改称の世論も漸く活発になり昭和24年1月に、無煙炭取扱駅として名のある大嶺駅の南に位置するところから南大嶺と改称して今日に至っている。
[駅近くの名所・旧跡] 日永の殲法講板碑・藤ヶ河内の自然石板碑・美祢炭鉱の荒川水平坑・古城址の殿山城跡
 広島鉄道管理局発行「駅長さんの書いた駅名ものがたり」から一部引用

確かに「伊佐駅」と言われても、伊佐の地名は美祢駅の東側、美祢ICの近くなので混乱しそうですね。

県道から少し奥まった旧道にある南大嶺駅無人駅で自動券売機、飲料自販機はなし(駅前に雑貨屋があり)、トイレも非設置。区画は無いけど駅前に10台くらいの駐車スペースがあり、何台かは近所の駐車場代わりになっている様子。駐輪場は確認できず。

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ホームは島式1面2線。かつては2面3線で駅舎側が1番ホームが大嶺支線だったそうですが、今では旧1番線が埋められてホームに拡幅されています。島式ホームはホーム長=155歩。
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下の写真は跨線橋からみた美祢駅方面。
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下の写真は、島式ホームと、駅舎前の旧1番線ホームの駅名標。1番線のは「おおみね」と書いてあったのを「みね」に書換えて再利用。
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建物財産標は駅舎では確認できず、詰所とホーム上待合所のものです。待合所のは平成に入ってのものですが既にこんなに古びているいます。でも考えてみればほぼ30年経つと思えば、平成も過去になりつつあるのを実感します。

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駅舎に掲示されていた駅写真の募集ポスター。応募できる写真はいくつもあるけど、こういうのに食指が働かないのは、やはり私に鉄分が無い証拠ですな。

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山陰本線:五十猛駅 (いそたけ)

(静間) - 五十猛 - (仁万)                  (訪問日: 2018/06/09)

此のあたりの山陰本線は沿線道路とは添い遂げるつもりが無く、独立独歩で山間を抜けてゆきます。(逆に言えば線路を引けるようにRを抑えられる道が無かった、という事でしょう) そういう訳で線路を離れた旧道に行くと、岬に挟まれた浦々に小さな漁港が続く風景です。まあ、こういう海岸沿いの道も岬で途切れてしまうんですけど。

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で再び国道9号に戻って、五十猛駅手前で振り返ると見える大崎ケ鼻の岬。この日は強風で白波を写そうとしたけど、この逆光では何もわかりませんね。
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五十猛も山と海に挟まれた集落で、国道9号のバイパスは砂浜ギリギリの海沿いの岩山をトンネルで抜けて直進するので、五十猛駅に行くには集落手前でバイパスを降りて旧道から入ります。(下はプラットホームから見た国道9号のトンネル)
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五十猛駅はホーム上の待合室だけの無人駅(昔の写真をみると、静間駅に似た木造駅舎がこの空地に建っていたらしい)。ホームへは築堤下のトンネルを通りますが、時刻表などの掲示物もトンネルに貼ってあります。駅前広場には10台くらいの駐車スペース、駐輪場は5台分のスタンド有り。

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ホーム上の待合室と太田駅方向の風景。ホーム長は151歩。
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こちらはホームから見た江津方面
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ホームから見た駅前広場、昔はここに駅舎があったのか。駅前には雑貨店らしき店がありますが、今は閉店している様子。
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山陰本線:仁万駅 (にま)

(五十猛) - 仁万 - (馬路)                   (訪問日: 2018/06/09)

鳴き砂で有名な琴が浜は馬路駅前でしたが、そこの砂を使った大砂時計があるのは、ここ仁万サンドミュージアム。仁万の街が少し内陸に入り込んでいるので、ミュージアムも浜辺から離れた所にあるんですよね。

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サンドミュージアム前の国道9号を少し進んだところで、線路を越えて海側から仁万駅に入ります。下の写真は仁万駅前通りの様子。
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この地域はかつて「邇摩(にま)郡」「仁摩(にま)町」ですが、小字名は「仁万」なので駅名は「仁万駅」。ああ、ややこしい。仁万があまり大きい街というイメージが無かったのですが、意外なことに(失礼!) 仁万駅は有人駅(営業時間は7:00~18:00)。木造平屋瓦葺で、瓦は山陰でよく見るJRマーク付きの青瓦。自動券売機あり、トイレあり。駅前に送迎用に2~3台の駐車スペースあり、駐輪場は駅舎左手に屋根付きで約100台。駐輪場の先には(たぶん契約車用の)駐車場あり。建物財産標は確認できず。

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待合室にあったらしいキオスク跡には自販機と、仁摩タクシーの事務所がはいっています。その他に売店・食堂は無く、駅前の売店も閉店中の様子。まあ国道9号まで出ればロードサイド店がいくつかあります。

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ホームは島式ホーム1面2線、ホーム上には木造待合室があり。ホーム長は179歩。下の写真は江津方面と大田市方面。

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山陰本線:馬路駅 (まじ)

(仁万) - 馬路 - (湯里)                  (訪問日: 2018/06/09)

湯里駅山陰本線と並走していた国道9号が馬路駅では再び山側に離れてしまうので、脇道から海岸線へ出て馬路駅に向かいます。家並の向こうに見える砂浜は鳴き砂で有名な琴が浜です。

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馬路集落の中の馬路駅入口付近。ここから右の山側が駅、突き当りを左に行くと琴が浜。
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集落から坂を上って少し曲がって広場に出たところが駅前。この駅への入り方、駅前の家々の佇まい、ホームから浜と海が見えるところも黒松駅とよく似た雰囲気です。昔の駅舎跡の隣に古いトイレが残っていて、ホームに待合室が1棟建っている所もそっくり。駅舎跡に4~5台程度は駐車可、屋根付き駐輪場が10台分。見ての通り無人駅で自動券売機も飲料自販機もなし。近所に食堂・売店もなし。(駅前の家は運送屋さんの看板が出てますが)

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ホームは島式1面2線で、ホーム長は151歩。

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Wikipediaにはホーム上に乗車駅証明書発券機があると書いてますが、待合所の中にも見当たりません。(というか山陰本線ではまだ見たことが無いなあ)

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線路沿いのトイレの奥には詰所が残っています。この詰所とトイレは昭和末の昔の写真にも同じように映っているので、そのころからの建物ですね。
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 ホームから見える城上山と高山。湯里から仁万にかけて、道すがらよく見えます。

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山陰本線:湯里駅 (ゆさと)

(馬路) - 湯里 - (温泉津)                 (訪問日: 2018/06/09)

温泉津駅から北は、山陰本線は少し山側に入り込んで国道9号とほぼ並走、国道9号も広くて快走できます。で、ちょうど並走していた大田方面行き列車が下の写真(走りながらなので、どうしてもアングルが苦しいのはご容赦)

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湯里駅は新しそうな駅舎(Wikipediaによれば2004年に建て替え)の無人駅、券売機や改札などの駅業務機能は無く、構造はちょっと違うけど雰囲気は石見福光駅と似てます。駅前の空地には4~5台駐車可、駅舎左手が駐輪場になっていて10台くらいのスペースがあります。(駅舎にトイレがあった様な気がしますが、確認し損ねました) 今は線路と国道がほぼ同じ高さですが、昔の写真を見ると道路がもっと低くて線路盛土の下の方に駅舎があったようです。

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ホームは1面1線でホーム長は144歩。
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こちらは国道からの入口にある「ヨズクハデの里」紹介の看板。といっても、これだけみても余所者には何のことか分からないと思う。私もローカルニュースで見るまで知らなかったんだから。(こういのは地域ごとに呼び名が全然違いますからね)

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山陰本線:沿線-温泉津 波路浦

(訪問日: 2018/06/09)

石見福光駅から温泉津駅山陰本線は山間をトンネルで抜けてゆくので、沿道も山道ワインディングコースになるのですが、そうして山越えをして温泉津の里に降りてきたと思ったら、急に漁船が並ぶ小さな漁港に出ます。

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地図で見ると温泉津港の入江の、さらに枝別れした入江で浪路浦というらしい。それまで急坂の山道を上り下りしてきたところに、急に漁船がずらっと並ぶ船溜まりに出て来くるのだから意表を突かれてしまいます。温泉津の街には右の道で山際を巻いて進んだ先にあります。
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下は温泉津へ行く道から船溜まりを振り返った所。
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浪路浦から見た温泉津港。温泉津駅は右端に見える集落から更に向こう。
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