(港山) - 三津 - (山西) (訪問日: 2018/11/18)
松山の外港、三津浜の玄関口になる三津駅、夏目漱石の「坊っちゃん」にも出てくるとの事。駅舎は10年程前に建てられた鉄筋平屋建てで先代の外観を模したデザイン、駅舎内の交流館で物品販売もしている結構大きな建物ですが、先代はもっと大きかったらしいです(高浜駅みたいな規模だったのかも)。駅前ロータリーには駐車区画が数台分、駐輪場は駅舎右手に屋根付きで約150台(駅の反対側線路沿いにも同じくらいの駐輪場有り)。駅舎内と駅前に喫茶店があり。
こちらは駅舎西口からホームへ入るエントランスと隣にある交流館のケーキ屋兼喫茶店。
ホームは駅舎側に1面、島式が1面2線で構内踏切で渡ります。島式ホームのホーム長は73歩。
で、幅広のホームには券売窓口(訪問時は駅員不在)と自動券売機、タッチ式改札機を設置、トイレもここにあったと思います。ということは、こっちが駅舎で表にあるのは待合所という事か?
下の3枚は順に、港山駅方面、ホーム端(山西駅側)からみたホーム上の待合所、山西駅方面。
こちらは駅前にある古風な売店と、その前の駐輪場横にある「石崎ナカ」さんの顕彰碑。この人の事を物知らずの私が知らないのはしようが無いけど、「明治初年に県内最大の、しかも女子だけの寺子屋を経営」したという人はもっと知られても良いのではないだろうか。三津浜で石崎家と言えば石崎汽船の創業がこの寺子屋開所とほぼ同時だし、一族の経営だったのでしょうかね。
石崎ナカ顕彰碑
地域社会は歴史のドラマが演じられる舞台ではない。しかし庶民の中に先覚者がいてその社会の担い手たちを教え導く時、地域社会もまた歴史を動かす力となる。かくして日本の近代社会は開花した。
幕末から明治の初年、ここ三津浜町に生まれ住みそして教えた石崎ナカはかかる先覚者の群像の中でも一際鮮やかな一人の女性である。「偉い三津屋のお師匠様」と慕われたナカは県内にあった千に近い寺子屋の中でも最大のしかも女児ばかりの寺子屋「三津屋」を開き寺子屋の数は常に百名を越えていた。さらに又ナカ一人で講したところは、六歳より十六歳まで年齢に応じ手習いと小学、四書、五経の素読のほか裁縫、小細工、生け花に及んだ。幕末以来のナカの業績が県下の女児教育推進に果たした役割は多大のものであった。
「三津の朝市」でにぎわった三津浜町の進取の気性を一層培った商家出の女師匠、ナカの存在は私たちの大きな誇りである。
ナカ没後満百年、国際婦人年最終年に当たりここに
郷土にいきた異色の先人の業を讃えこれを千載に伝えるためこの碑を建てる。
昭和六十年(1985)二月
松山西ロータリークラブ平生心得
何によらず出しずてにすべからず
万事用向きを延々にすべからず
物事くずを残すべからず
汚れたものをのけておくべからず家持五ヶ条
一、先祖を大切に可為事
二、物事堪忍の事
三、万事分限を知る事
四、奢をはぶき業を可勤事
五、遊戯に替て日用を怠るべからず石崎ナカ略年譜
文政二年 和気郡三津藤井町(現在三津三丁目)の木綿問屋三津屋石崎祐三の長女に生まれる。
天保十年 松山城下古町の酒造業和田又四郎に嫁し、数年後夫とともに京都に出て国学所を開く
安政六年 夫病死 三津に帰る
万延元年 寺子屋開所 四十一歳
明治五年 学制頒布 寺子屋継続願いを県に提出し認可され、小学女児校二等訓導に任命される。
明治十七年 死去 六十五歳