tkmov(バイクとローカル線と)

バイクでローカル線を巡るという、少し変なブログ。訪問駅のリストは、カテゴリ「事務連絡」の中の「駅名リストのリスト」から辿る事が出来ます。

指宿枕崎線:沿線-殿様湯

(訪問日:2024/05/25)

二月田駅前のフォトスタジオの人と話していて、指宿に来たので良い温泉は無いかという話になって、近所に殿様湯という温泉があると勧められたので行ってみました。島津公ゆかりの温泉で早朝からやっているという話でしたが、さすがに朝7時でしたので、空いているかどうか半信半疑でバイクを走らせました。

国道226を少し鹿児島方向に戻って、川沿いの道を西に進むと雑貨屋の横に看板が出ているので、すぐにわかります。

本当に7時から開いているのが素晴らしい。

下の写真で右側が浴場の外観、左側の住宅の様な方に受付があります。浴場にシャンプーとかはないとの事なので、入浴料とタオル、石鹸を買って確か670円でした(記憶が曖昧)。浴室には説明通り備品は一切なし、浴室真ん中の湯桶に熱々の温泉がたっぷり流れ込んでいる良いお湯でした。

浴室の写真を撮る訳にはゆかないので、代わりに浴場の隣にある昔の殿様湯の遺構を載せときます。

市指定史跡 殿様湯跡(とのさまゆあと)     昭和46年3月20日指定
 指宿市における「殿様湯」設置の歴史は、江戸初期に遡ります。最初に2代藩主島津久光(ひさみつ)の治世(1616~1695年)に、摺ヶ浜温泉(現在の砂むし会館砂楽周辺)に別荘である「殿様湯」が置かれました。その後、殿様湯は、寛政9年(1797)に、9代藩主島津斉宣(なりのぶ)によって長井温泉(野次ヶ湯温泉の付近)に、文政11年(1826)5月には、10代藩主島津斉興(なりおき)によって、ここ二月田温泉に浴場が設けられました。つまり、殿様湯は2回引越しをしていることになります。現在は、石造りの浴場が露天風呂のように見えますが、本来は立派な建物が浴場の上に建っていました。
 殿様湯の浴場跡では、現在もいたるところから湯が湧出しているため、床面の石畳などを直接見ることは出来ませんが、清掃時に撮影した写真をもとに、殿様湯の構造を説明します。浴場内には4つの枡があり、①の枡は源泉が湧き出る場所です。西隣の②の溜枡→北隣の③の溜枡→④の浴槽という順に、時計回りに温泉が流れ込むように水路が設けてあります。枡に一定量の湯がたまった時に、隣の枡にお湯が注がれる仕組みになっており、浴槽に流れ込む泉温は適温に調整されていたようです。
 浴槽の外側を観察してみると、周囲の石敷きは、大きさが統一された方形の切り石が敷きつめられた精緻な造りです。一方、浴場の外側は不定形な敷石が敷き詰められています。いかに藩主の浴室の建設に力が入れられていたかをしのぶことができます。
 浴場に通じる階段は2つあり、藩主が利用していたのは南側の階段です。東側の階段は一段目が石段ですが、二段目と三段目はコンクリート造りで、表面にはタイルがはめ込まれています。このタイルはイギリス製の銅版転写タイルと瀬戸の銅版転写タイルであり、いずれも明治中期(1880~90年代)のものです。したがって、東側の石段とコンクリートの階段は、明治中期以降に作りつけられたことは明らかで、藩政期には存在していなかったものとなります。殿様湯周辺には、2基の石碑が建てられています。両者とも山川石とも呼ばれる黄土色の石材が用いられています。それぞれを1号石碑、2号石碑と呼びたいと思います。
 1号石碑は、幅29cm、高さ83cmを測り、殿様湯西側に面を向けて建てられています。「従是御用之外不」の文面が見え、「これより内側はお殿様専用のため、入ってはいけません」と書いてあり、殿様専用の温泉であったことがわかります。また、側面には、入浴可能な身分に加え、入浴時の注意事項「大声で雑談してはいけません」が記されています。
 このような藩主専用の浴場が当時の姿のまま保存されている例は、全国でもほとんど知られていないため、殿様湯跡は江戸時代の温泉文化を知る貴重な資料と言えます。