tkmov(バイクとローカル線と)

バイクでローカル線を巡るという、少し変なブログ。訪問駅のリストは、カテゴリ「事務連絡」の中の「駅名リストのリスト」から辿る事が出来ます。

信越本線:沿線-柳原神社・御所天満宮

(訪問日: 2023/06/16)

長野駅の周りで駐輪場を探した際、善光寺口から東口へ駅西側のアンダーパスを通りながら途中の神社(柳原神社と御所天満宮)を見てきました。*1

長野駅の北から北東にかけては繁華街ですが、西側は最近開発された落ち着いた住宅街という風情です。もっとも線路で南北に分かたれてますが、このあたりは中御所という地名なので、中世はここが長野の中心だったのかもしれませんが。(中御所遺跡については八幡宮の説明板に出てきます)

長野駅善光寺口の大通りを西に行って、東口へのアンダーパスへ左折する角にあるのが柳原神社です。諏訪七社の一つとの由。道路拡幅のため社殿は最近新築したとの事ですが、境内には社叢もあり長野駅の近くとは思えない静けさです。

そこから信越本線を南に渡って、住宅街の中にある八幡宮です。区画整理で10年ほど前に現在地に移転してきたとの事で、写真の通り住宅に囲まれた二間幅程の小さな神社です。

由来は説明板を見てもらうとして、もともとは守護所と思われる舘跡にあった八幡宮に、昭和54年に天満宮が併設されたもの。なので鳥居扁額はもとからあった八幡宮で、社殿のなかは右側が八幡宮、左側が御所天満宮とキッチリ左右で別れています(天子南面して左側=向かって右側が上座なので、先に居た八幡宮が右側という事かな)。神紋も八幡宮の三つ巴と、天満宮の星梅鉢と二つ並ぶあたり律義なことです。

しかしながら、現代の庶民にとっての関心事は圧倒的に天満宮の方らしく、左右の壁の絵馬と参道の幟は学業成就の願掛けで占められています。まあ今時、武運長久を祈る人は居ないかもしれないけど、スポーツの必勝祈願ぐらいあっても良いかと思うんですけどね。

中御所守護舘跡 八幡宮 天満宮 御所遺跡
この場所は、明治初年の「長野県町村志」では、「御所跡」と紹介され、建久八年(一一九八)源頼朝善光寺に参詣した折の宿跡との言いつたえとともに、漆田氏の舘跡と推定されています。また、「中御所」という地名にからめて信濃守護職小笠原氏の守護所やそれに関連した居館跡とする説もあります。
舘は東西六十六メートル、南北五十六メートルあり、中央が一段高く周囲は空堀跡と思われる低地がありました。
文安三年(一四四六)の「漆田の戦」もこの付近と伝えられています。
この舘跡に八幡宮を建立し、地元の産土神として地元の職人、商業者、養蚕者に崇拝されました。その後、昭和五十四年(一九七九)学業成就を祈願する人のため、東京亀戸天神社より御分霊いただき、「御所天満宮」として併設されました。
しかし、平成四年(一九九二)九月五日不慮の火災により焼失し、同年十二月に再建されました。
平成二十二年(二〇一〇)の長野駅周辺第二土地区画整理により、現在の場所に移転となりました。
平成五年(一九九三)から進められた長野駅周辺第二土地区画整理事業に伴い、平成十六年(二〇〇四)から居館跡とその周辺に関する調査が始まり、その結果、次の遺構等が発見されました。
・「堀」幅十二メートル前後 深さ二メートル以上の空堀
・「土塁」堀底から測る高さは五メートルにも及び、見上げるような規模であったと推定される。
発見された遺跡では素焼きの「カワラケ」「内耳鍋」や古瀬戸などの陶器に混じって中国から輸入された「青磁」「白磁」の破片や中世に流通した銅銭も発見されました。
  平成二十八年
   長野市東口地域街づくり研究会

 

さて長野で小神社を見て回るのは、昨日の記事に書いたように富山の様なガラス張り神社の分布を確かめるため。この他にも信越本線沿線でいくつか見てみましたが、そういう神社は無さそうですね。

 

*1:前の記事に書いたように、富山のガラス囲いのある神社の比較として、道々の小神社を見て回ったのです。最も柳原神社は小社というほど小さくはないけど