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バイクでローカル線を巡るという、少し変なブログ。訪問駅のリストは、カテゴリ「事務連絡」の中の「駅名リストのリスト」から辿る事が出来ます。

山陰本線:沿線-高津柿本神社

(益田) - - (戸田小浜)                         (訪問日: 2021/07/21)

以前に戸田小浜駅近くにある、柿本人麻呂生誕地に建つ戸田柿本神社に行きましたが、今回は人麻呂終焉の地にちなんだ高津柿本神社に寄って見ました。

津和野から国道187で北上し、益田市街地に入ったあたりで高津川を高角橋で渡ると、すぐに高津柿本神社への参道です。参道奥の鳥居横に大きな駐車場があり。天満宮の様な朱塗橋と立派な楼門という構えというのを見ると、やはり戸田の方の神社と比べて、旧藩主からの庇護の厚さというのを考えてしまいますね。

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楼門は二層桁行三間の瓦葺入母屋造り。初層には色紙に書かれた和歌が奉納、掲額されています(ちょっと写真では分かりにくい)。ちょっと面白いのは、参道階段の脇に童謡(烏の子)とか、歌謡曲(翼をください)とかの歌詞が架けてある事。人麻呂の歌聖としての御利益は歌謡曲にも及ぶという事なんですかね。
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下は楼門から見下ろした参道と高津の市街地。近世には山陰道の宿場はここに見える高津にあって、明治期の地図を見れば高津川の向こうの益田とは別の街だったようです。
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参道脇の稲荷神社。他に八幡社があるのですが、そちらには寄らずじまい。
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参道を登って山頂に着くと本殿、拝殿の横に出ます。説明板によると寄進した津和野藩主のいる津和野を向いているそうですが、津和野の南西方向というよりは、通常の神社の作法に従って南面しているように見えます。
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拝殿前の展望台にはこの地に因んだ柿本人麿の歌が掲げられていて、「石見のや 高角山の」というのはきっとこの山の事なんだろうな、とか思いながら、津和野への眺望を眺めていました。
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島根県指定有形文化財
柿本神社本殿 (指定 昭和五十七年六月十八日)
 柿本神社の祭神は柿本人麿で、その起源は人麿の終焉地鴨島に勅命により建立された社殿と言われています。
 鴨島は万寿三年(1026年)の大地震により海中に没しましたが、その時に人麿尊像が松崎に漂着したので、現在地より北の松崎の地に社殿が再建されました。その後、近世に入り慶長十三年(1608年)に徳川秀忠の命により、石見銀山奉行大久保長安によって造営され、寛文十一年(1671年)には津和野藩主亀井茲政(これまさ)によって宝殿、拝殿、楼門が修理されました。
 そして延宝九年(1681年)に茲親(これちか)は風波を避けて神社を現在地の高津城跡に移転しました。複雑な地形を効果的に利用した社殿配置と独特の建築様式を持った当神社は津和野藩が残した重要な遺産となっています。
 本殿は正面三間、側面三間の入母屋造妻入、檜皮葺で、唐破風造の向拝を有し、津和野の方角を向いています。殿内は亀井家の四ツ目結び紋を配した板扉によって外陣と内陣に区切られ、内陣の中央後方に須弥壇があり、向唐破風造屋根を戴く厨子が置かれています。
 また、柿本神社享保八年(1723年)の人麿千年祭にあたり正一位柿本大明神の宣下を受け、社宝として重要美術品に認定された御法楽御短冊が奉納されています。
    平成八年三月         益田市教育委員会

 

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柿本神社楼門由緒
 歌聖柿本人麿朝臣は、天武天皇持統天皇文武天皇に宮廷歌人として使えられ、大宝年中に石見国府の役人として石見に下り秀逸な石見相聞歌を残し、神亀元年(724)、石見高津の鴨島で逝去された。聖武天皇は甚く嘆かれ、勅命により鴨島に人丸社を創建された。万寿三年(1036)五月、石見未曾有の地震のために鴨島は陥没した。人丸社の尊像は松崎の地に漂着し、地区民は人丸社を再建した。石見大森銀山奉行大久保石見守長安は社殿の造営を行った。
 現在の柿本神社は、津和野藩主亀井茲政が、延宝九年(1682)、高角山に本殿、拝殿、楼門を建立したことから始まる。楼門は神聖な神社への出入口で、殊に入念に建造されている。これは偏に津和野藩主亀井茲政の崇敬が、篤かったことが伺える。
 この楼門は、初層と上層からなり、二層とも桁行三間、梁間一・五間の三間楼門で屋根は瓦葺きの入母屋造りである。上層には四方に切り目縁の床を張った廻縁を付け、勾欄を組み、組物は出組で、蝦尾を思わせるこぶし鼻と、柱頭の装飾的な木鼻が特徴的な折衷様式の門である。
 前回の大改修は明治二十四年(1891)に行なわれ、今回の平成十七年(2005)の改修は、百十四年ぶりの大改修となる。長い年月にわたる風雨などにより劣化が進んだため、屋根の吹き替えと木部の取り替え等の大改修が行われた。築後三百二十四年を経て、二十一世紀の現代に再生された。

 

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ちなみに万寿三年に人丸社尊像が漂着した場所は、ここから約2km北の山陰本線北側にある金毘羅神社恵比寿神社辺りとの事。今回は気づかずに訪問できなかったのですが、津波被害を伝える"松崎の碑"が国土地理院の自然災害伝承碑のリストにのっています。

自然災害伝承碑 | 国土地理院

 

ところで楼門の扁額は有栖川宮熾仁親王揮毫。この方の揮毫はいろいろな神社で見るような気がします。多家神社がそうだし、厳島神社大鳥居もそのはず。あるいは、この方以外では揮毫者名を掲示するという事がないだけなのか?

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