稲荷山駅を出た篠ノ井線は、姨捨の峠に向けて西側の山裾へ駆けあがって勾配を稼ぎます。
一方で善光寺街道の街道筋はもっと南へ、千曲川沿いの八幡(たぶんかつての稲荷山宿)へ向かうので、バイクで県道を南下し、道々の小神社に寄ってみました。ここには武水分神社という大きな社もあるんですが、少し前に見てきた砺波のガラス囲いの神社と比較したかったので、路辺の小さな神社ばかり目についたところを見てきました。
- 穴守稲荷神社:八幡市街の少し北側、路傍にある稲荷神社。名前をどこかで聞いたことがあると思ったら、例の羽田空港にある神社の分社でした。明治二十年代に料理屋が勧請したというのですから、善光寺街道一の宿場だったのが偲ばれます。今では周囲は住宅に囲まれた県道沿いの神社です。
- 臼道祖神:武水分神社の参道を南に進んで山道にかかる直前の交差点、ケヤキの根元にある小さな祠です。最初気づかなかったけど道祖神が臼に乗っているんですね。峠道から八幡の街の方を見返すと宿場町の入口を守っているように見えます。
臼道祖神(臼道祖神社)
道祖神は村の入口、部落の境などの路傍に立っている。自然石のまま、あるいは台石の上の棹に道祖神と刻まれたものが多い。そして塞の神といわれるように、悪霊や邪悪の村への進入を防ぎ、道行く人を守る神である。また、近在では正月、道祖神の前でドンド焼が執り行われるのが普通である。
峰・姨捨・郡方面から下る道筋のこの辻の道祖神は、自然石で臼を台座としているが、臼は女性の代名詞で、その上に道祖神が乗り陰陽をあらわしている、との見方もある。流造りの社殿に安置され、鳥居まである特異な道祖神である。したがって臼道祖神と呼ばれ、臼道祖神社として崇敬される理由であろう。
祭日は九月二十四日で、子供相撲が公民館の庭で引き続き実施されている。なお、大頭祭の際には武水別神社へ向かう頭人は拝礼し、干ばつの夏には雨乞いの人びとによって、御本尊の道祖神は川底へ沈座された。かつては八月一日に、虫送りの行事もあったという。
社殿の上には「臼道祖神社」の額が掲げられ、堀内中将敬書とある。松代出身の戦前の陸軍中将で、名は文次郎、俳諧をたしなみ信水と号した。俳句のメッカ姨捨に円山晩霞を中心とする田毎句碑に、軍人らしい放胆な、「信玄も謙信も我と月見哉:が併刻されている。近くには別荘名月荘があって、終戦前後は大陸浪人川島浪速が過ごしている。揮毫はこの縁であろう。
斎の森神社と八日市場
この斎の森神社の歴史は鎌倉時代、およそ七〇〇年ほど前に建立されたと言われ、中世以降は諏訪大明神といわれた。東山道信濃路の峠(諸説あるが一本松峠であると思われる)を下って、川中島平に入る入口を守る神(塞の森)として、また、武水分神社に対して先の森であったと言われる。
この地籍は八日市場と称され、八幡宮を遥かに拝む交通上の要所であった。八の日に市が定期的に開催されたのは鎌倉時代からであろうか。これより先の郡下の年貢を、遠路木曽路を越えて、大和の国まで運ぶ交易(米や絹などを金銭にかえて上納)の場であったと言われている。
今は主なる祭事として、毎年十二月十日から五日間行われる大頭祭(新嘗祭)の大祭の出発神社として、伝統を引き継いでいる。
また、この神社にモダンな煉瓦造りの献燈台が目に留まる。大正九年十二月に、当時の窯業と煉瓦職人の遺産(三重県津市立合町煉瓦職人清水万吉)により寄進建造、当時を忍ぶ思い出深いものがあり、斎の森神社の象徴的役割を果たしている。
長野駅近くと八幡で少ないながらも神社を見て回りましたが、富山砺波の様なガラス戸で囲った神社はありませんでしたね。やはりあれは富山での風習なのだと思う。