tkmov(バイクとローカル線と)

バイクでローカル線を巡るという、少し変なブログ

このBLOGについて

このBLOGを思い立ったのは2015年夏。元々は別のBLOGに書き込んでいたのですが、雑然としてきたのでもう一つBLOGを起ち上げたものです。*1

*1:なので、このBLOG開始は2016年頭ですが、記事は2015年からの物があります。

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メモ:一灯点滅式信号機

ツーリング途中で見つけた一灯点滅式信号機を記録。最初は昔の形式かと勘違いしていましたが、別に現行形式だそうで「通常の交差点信号機を設置できない細街路交差点で、主従を明確」にするための信号機だそうです。*1  といっても、別に他の交差点と比べて通常の信号機が付けられない、という程の細街路とも思えないですが。(小海線のはちょっと狭かったですけど)

 

 

東海道本線:米原駅 (まいばら)

(醒ヶ井) - 米原 - (彦根)、(坂田)、(フジテック前)                  (訪問日: 2017/10/01)

 

関ヶ原から峠越えをして、ようやく琵琶湖畔に出て来たところで米原駅、沿道も21号から9号に変わります。

新幹線駅でもあるしローカル駅でもないので、ここは駅前(東口)の写真を撮っただけで退散。

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東海道本線:醒ヶ井駅 (さめがい)

(近江長岡) - 醒ヶ井 - (米原)                  (訪問日: 2017/10/01)

柏原から北に迂回していた東海道本線は長岡を経て、醒ヶ井で旧街道と国道21号、東名高速と合流します。醒ヶ井駅も国道21号線沿いになります。

駅舎の右半分はコミュニティセンターとの併設。駅前と向かって右側に駐車場が50~60台、駐輪場は確認できず。駅舎に売店・食堂は無いけど周囲に店舗多数(国道沿いだし、醒ヶ井宿は観光地ですし)。トイレは駅舎右手に設置。下の写真の左手には道の駅「醒ヶ井水の宿駅みゆき」で、野菜直売所とかもあります。

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f:id:tkmov:20180108113808j:plain 駅舎の表札でもコミュニティセンター併設の形式。

駅事務は委託業務らしく、1~2時間おきに30分程度開業。自動券売機は無いので、窓口閉鎖時は無人駅と同じ扱いなのでしょうけど、そうは言っても割引券とかが欲しい人は不便だろうし、実際に窓口をたたいて事務員を呼んでいる人はいましたね。

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ホームは1面1線+島式1面2線ですが、駅舎側のホームは閉鎖。ホームの端が斜めに削られてしまって物理的に利用できなくなっているのは、潔いというべきか、もったいないと考えるべきか悩むところです。島式ホーム長は歩測で約240m。

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f:id:tkmov:20180108120352j:plain 建物資産標はホーム待合室の物です。

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おまけ:柏原以西の民家にはベンガラ色が使われていましたが、醒ヶ井駅では駅舎の柱が赤色。

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県境の向こうの関ヶ原ではこういう装飾は無かったので(あちらはどちらかというと白壁と黒)、この地域差が気になっていたところ、醒ヶ井で見たのが下の案内板。丹生という地名からするとかつては辰砂(赤塗料の元になる酸化水銀)が採れていたのかもしれません。そうはいっても、息長丹羽真人(醍醐天皇の頃)の伝記には辰砂の話は出てこないし、仮に奈良時代以前に辰砂が採れていたとして近世の流行に繋がるというのも考えにくいし、そもそもあの色付けは多分ベンガラ(酸化鉄)で辰砂とは別だと思うし、単なる街道筋の流行だったのかなあ。と色々と疑問は広がってしまうのです。

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東海道本線:近江長岡駅 (おうみながおか)

(柏原) - 近江長岡 - (醒ヶ井)                  (訪問日: 2017/10/01)

柏原から西進して長岡あたりで東海島本線は、国道21、名神高速、旧中山道からも離れて北に迂回します。線路沿いの道も農道とかを経由して紆余曲折しながら、長岡駅付近でようやく県道244にでてきます。だいたい、この県道244って明治時代の旧東海道線の跡なのでは?、というのは帰って来てから地図を見て気が付いたこと。

長岡駅は県道に面した有人駅(委託かもしれないけど)、自動券売機はチャージ対応、自動改札は無し。駅前広場には送迎用駐車場あり、駐輪場は確認できず。広場に面して喫茶店の看板はあれど営業しているかどうか少々疑問。

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ここは伊吹山の最寄駅なので、湖国バスの車庫には伊吹山のスキー場の看板がかかっていますが、ホームの案内板ではスキー場の案内が消されていたのが気になります。

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待合室の奥はある、何かいわくありげな煉瓦壁。真ん中の窪みは何かイコンがかかってそうな感じ。
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ホームへの連絡地下道
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下りホームから見た米原方面。こちらのホーム長は約230m、対向の上りホームは約240mで、両ホームは約40mずれた千鳥配置です。
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上りホームから見た関ヶ原方面。丁度正面に伊吹山が見えます。
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伊吹山の名所案内でスキー場とリフト案内が消されているので、スキー場が閉鎖されたのか。
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建物財産標は順に、駅舎、下り線ホーム待合室、上り線ホーム待合室のもの。
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おまけ:長岡駅付近の家には梁や軒下にベンガラの赤色を付けているところが多い(柏原宿よりも少し控えめですが)。古い家だけではなく、下の写真の様に新しそうな家でも軒下の材を赤色に塗っているので、根強い伝統なのかも。

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東海道本線:沿線-柏原宿

(関ヶ原) - - (近江長岡)

柏原駅前には旧中山道が通り、柏原宿の街並みが残っています。江戸時代は、木曽、揖斐、長良川から琵琶湖へ抜ける中継路として栄えたところです。道路探索という意味ではこういう旧街道も辿ってみたいのですが、現有鉄道と違って旧街道は事前調査しないとなかなか現地では辿れないし、たまたま出会った部分を探索することになってしまいます。

下写真:R21から柏原駅・旧中山道に入る脇道。
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下写真:柏原駅前から東の中山道
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下写真(3枚):柏原駅から中山道を西へ進む。
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柏原宿の西端の一里塚。碑の建っているところからすると橋のたもとの樹が一里塚にみえますが、その奥の小塚が復元された一里塚です。
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こちらが復元された一里塚
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(復元)柏原一里塚

一里塚は、旅人の里標(みちのり)の目安・駕篭・馬の乗り賃の目安と旅人の休息場所として作られた。

 慶長九年(1604)、徳川家康の命をうけ、秀忠はまず東海道中山道北陸道での一里塚築造に着手した。そして奉行には永井弥右衛門白元・本多佐太夫光重を任命、江戸は町年寄の樽屋藤左衛門・奈良屋市衛門、街道沿いでは天領は代官、私領は領主に工事参加の沙汰が出された。工事現場の総監督はすべて大久保長安が担当した。
 一里塚の規模は、五間(9メートル)四方に盛土して、一本または複数本の木が植えられた。おもに榎が選ばれた。成長が早く根が深く広く張って塚が崩れにくい利点から採用された。
 柏原一里塚は、江戸日本橋から数えて百十五番目で、柏原宿内の西見附近くに街道を挟んで北塚と南塚があった。(両塚とも現存しない。)
北塚は、街道沿いに北側で、愛宕社参道の石段東側(現仲井町集会所)の場所にあった。
南塚は、街道を横切る接近した二筋の川のため、やむを得ず東側のの川岸で街道より奥まった所に築かれた。(現在では、大幅な河川工事が行われたので、この地点から東寄りの河床の位置になる。) なお、江戸時代刊行の道中記等を見ると、両塚とも三本の榎が描かれている。

東山道と九里半街道
(古道東山道の道筋)
 東山道は、横河駅があった梓を中山道と同じ道で東へ進み、長沢を過ぎ、ここ北畠具行卿墓参道入口のある谷間で、中山道と別れ山越えする。

 徳源院のある清滝へ降り、右へ折れ、成菩提院裏山の北側を東進する。
 JR野瀬(山)の踏切に至り、再び中山道と合流して、県境長久寺へと向かう。

(九里半街道)
 中山道関ヶ原宿と番場宿の間は、九里半街道とも呼ばれた。
 木曽・長良・揖斐三川の水運荷物は、牧田川養老三湊に陸揚げされ、関ヶ原宿から中山道に入り番場宿で、船積の米原湊道へ進む。
 牧田から米原湊までの工程は九里半あった。関ヶ原・今須・柏原・醒ヶ井・番場の五宿は、この積荷で、六、七軒と問屋場が多かった。

 

ところで、柏原宿ではベンガラで赤く飾った旧家が目立ちます。これはここだけではなく、米原付近までの街道筋の特徴なのですが、その理由は醒ヶ井駅の近くで明らかになります。

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おまけ:中山道東山道の分岐点にある一灯点滅式信号機。
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