(式敷) - - (信木) (訪問日: 2018/04/05)
式敷駅のすぐ近く、式敷大橋に向かう県道の道端に、かつての渡し場の石標が建っています。安政年間の船賃が五文と書いてあります。
石碑が立っている場所は河川敷からかなり奥まった山裾ですが、昭和47年の水害で流されていたものを見つけて、ここに据え直したものだそうです。あの水害は三江線沿線で、色々なところに跡を残していますね。
将来はここに、三江線の駅跡を示す碑が並ぶことになるのでしょうか。
江の川の渡し場
「下川毛(しもかわけ)の渡し」の石標本町と対岸の作木村を結ぶ江の川架橋は、現在五カ所(三江線鉄橋を含む)を数えるが、それらはすべて戦後のものである。それまでの交通は、渡し舟に頼るほかなかった。
渡し場の位置は、時代によって多少の移動があったが、町域では七カ所(乙木、唐香、赤池、下川毛、千原、門田下の原、下川根) 呼称も安芸側、備後側の地名とさまざまであった。そのうち、ここ式敷と、香淀川毛(作木村)を結ぶ「下川毛の渡し」は、「国郡志」(1819)によれば、公認の渡し場(傍線の箇所)であった。
式敷川が合流するこの辺りは、近世、船津と呼ばれ、江の川舟運の船着き場でもあった。川幅80m、ダムの無い時代には、水曜は豊富であった。
この渡しも、昭和28(1953)年の式敷橋(農道吊橋)架設によって廃止された。
この渡し場の石標は、昭和47(1972)年の大洪水によって洗い出され、式敷大橋たもと(高宮側下流)で発見されたものである。
碑面には
定 佐々都村
一 当横渡 ちんせん
五もん
尤水はかりの余ハ 三分
安政五年(1858)
牛二月 調之とあり、水量によって舟賃が異なっていたことがわかる。