tkmov(バイクとローカル線と)

バイクでローカル線を巡るという、少し変なブログ。訪問駅のリストは、カテゴリ「事務連絡」の中の「駅名リストのリスト」から辿る事が出来ます。

赤穂線:沿線-坂越浦・大避神社

(訪問日: 2022/07/16)

坂越駅前の地誌案内板に書いてあった、かつて千種川舟運と瀬戸内廻船を繋いでいた坂越浦へ行ってみました。坂越駅正面から国道250を横切って千種川の左岸に渡ります。瀬戸内海側に行くには、この正面の山越えをしてたのかと最初思ったのですが、実際は下写真の左側にある山の鞍部を通っていたらしい。

千種川を渡った山際には、海側へ抜けるトンネルが掘られていますが、今回は左の道で鞍部へ回ります。

で、こちらが坂越浦への街道(木戸門跡から海側を臨む)。ごく緩い坂道で、これなら荷を陸揚げして運ぼうかと思いますね。

下は木戸門跡。道標に書いてあるのは「右大阪 左城下」

街道から瀬戸内側に出た交差点。正面は禁足地である生島。

浦の中心にある大避神社へ参拝。下は参道入口から境内まで。途中には博士像、金剛力士像のある山門あり。

うかつにも拝殿の写真を撮り忘れましたが、祭神は秦河勝とのこと。意外なところで意外な名を聞くことになるのは、誕生寺の熊谷直実の時の様な感慨。

秦河勝ゆかりの地 坂越
かの河勝、欣明・敏達・用明・崇峻・推古・上宮太子に仕え奉る。此芸をば子孫に伝え、化人跡を留めぬによりて、摂津国難波の浦よりうつほ舟に乗りて、風にまかせて再開に出づ。播磨の国しゃくし<坂越>の浦に着く。浦人舟を上げて見れば、かたち人間に変れり。諸人に憑き祟りて、奇瑞をなす。則、神と崇めて、国豊也。大きに荒るると書きて、大荒大明神と名付く。今の代に、霊験あらた也。本地毘沙門天王にてまします。上宮太子、守屋の逆臣を平らげ給いし時も、かの河勝が神通方便の手をかかりて、守屋は失せぬと云々。

秦河勝
秦氏百済から渡来して帰化した夕月君を祖とし、土木、養蚕、機織などの技術を発揮して、大いに栄えた古代氏族です。その中でも秦河勝は、飛鳥時代前半(6世紀半~7世紀半ば)に聖徳太子に仕え、山背国葛野郡太秦(現在の京都府京都市右京区太秦)に広隆寺を創建したことで有名です。
大避神社の縁起によれば、秦河勝聖徳太子死後の皇極3(644)年9月12日に、蘇我入鹿の乱を避けて海路で坂越に漂着し、千種川干拓を進めたのち大化3(647)年に坂越の地で没したと言われています。坂越湾に浮かぶ生島(樹林は国指定天然記念物)には、秦河勝の墳墓と伝える古墳が今も残されています。

大避神社
生島を禁足地とし、島内に祭礼の御旅所を擁する大避神社は大避大明神(秦河勝)を祀る神社で、養和元(1182)年にはすでに有力な神社でした。旧赤穂郡(現赤穂市相生市上郡町)には大避神を祀る神社がかつて28以上あり、古代から中世にかけて旧赤穂郡秦氏との密接な関係が古文献などからも判明しています。
大避神社の祭礼は、秦河勝が坂越に漂着した日を祭礼日として始まったもので、「坂越の船祭」(国指定重要無形民俗文化財)は、瀬戸内三大船祭の一つに数えられています。

坂越の船祭(大避神社祭礼)
坂越の船祭は、大避神社の秋の例祭であり、神輿が神社から生島にある御旅所までを渡御するもので、この生島が浮かぶ坂越湾を舞台に繰り広げられる。
毎年10月の第2日曜日の本宮では、神社から眼下の海岸まで、鼻高と獅子を先頭に、各町の頭人が神輿に付き添いながら行列した後、海岸から御旅所のある生島まで、2艘の櫂伝馬に曳航された獅子船、5艘の頭人舟、楽船、神輿船、歌船からなる船団を連ねて湾内を悠然と巡行する海上渡御となり、祭礼はクライマックスを迎える。
海上渡御の船団に使用される各船は、それぞれの役割ごとに仕立てられた祭礼専用の伝統的な木造和船が用いられており(兵庫県有形民俗文化財)、天幕、五色の吹き流し、幟、提灯などで飾られた船団は、かつての大名行列の船団の華麗さを彷彿とさせる。またこの船渡御の形態のほか、氏子から選ばれる頭人といった古風な習わしが残されていることなど江戸時代からほぼ変わらぬ姿で伝承されており、瀬戸内海を代表する大規模な船祭の典型例として、平成24年3月8日に国重要無形民俗文化財に指定された。