tkmov(バイクとローカル線と)

バイクでローカル線を巡るという、少し変なブログ。訪問駅のリストは、カテゴリ「事務連絡」の中の「駅名リストのリスト」から辿る事が出来ます。

北陸本線:沿線-山中信号場跡

(旧北陸線トンネル群) - 山中信号場跡 - (大桐駅跡)                     (訪問日: 2018/10/16)

県道207号=旧北陸線も大桐駅を過ぎると標高を上げてゆきますが、峠道にしては緩傾斜でゆるいRを描くところが、普通の道路とは違います。
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途中の谷底では北陸新幹線のトンネル工事中。新幹線が今度は旧北陸線の方をなぞって行く(どちらかというと、交差しながらというべきか)というのも、ちょっと興味深いものがあります。
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途中のロックシェードはまさに列車一両分の幅しか無く、ここが昔の線路跡だと印象付けてくれます。

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そうやって峠付近まで上って来たところが中山信号場跡。バイクを停めたスペースの後ろ側がスイッチバックの待避線です。
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上の写真から振り返ったが退避線跡。水平な築堤の先にはロックシェード(スノーシェードか?)が残っています。案内板の写真だとここは複線だったそうですが、結構ギリギリな幅ですよね。
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待避線跡から4~500mくらい上った所が中山トンネルと、左隣が引込線のトンネル跡です。上り線は一旦この引込線トンネルにはいってから、バックでさっきの待避線まで4~500m戻って待機してたという事になります。1kmぐらいの区間を縦横に使って列車が行き違いをしていたのを想像すると、チョコチョコと走り回っているバイクとのスケール感の違いを感じます。
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山中信号場 待避線跡地
当時の北陸線であった敦賀ー今庄間は、海抜八メートルの敦賀駅から、南条山地の山中峠の下をくぐり、海抜二六五メートルの山中信号所まで前後一四キロメートルにわたって千分の二十五の上り勾配が連続し、しかも曲折が激しかった。
山中信号所からは、これまた千分の二十五の急勾配で大桐駅まで一気に駆け下るという、現在の鉄道設計では考えられない過酷な線路であった。また列車の停車や通過列車の退避は、急勾配の線路上では不可能で、水平な折り返し線や待避線路を使わないと停車や発車は出来なかった。
このため、敦賀ー今庄間には、敦賀市の新保、葉原ならびに南越前町の山中に、列車の折り返し線と待避線路を併せ持った施設としてスイッチバックが設けられた。
この方式は単線列車往来の一つの退避方法として、初期の鉄道敷設時代に考え出されたシステムである。
上の図は、山中信号場のスイッチバックの状況である。急勾配の本線A(今庄方)の大桐駅から上って来た列車は、いったん勾配の無いBの折り返し線に進入し、バックで上りの待避線Cに入って信号待ちする。下り列車が通過した後に、この水平な待避線から発車し、勢いをつけて元の本線に進入してDの山中トンネルに入り、敦賀に向かった。下り列車が退避した場合は、上り列車が通過後、本線もしくは折り返し線に入り、大桐駅へ向かった。したがって、待避線は上りと下りの複線になっていた。なお、現在地は待避線上りの入口である。
一九六二(昭和三七)年三月、北陸トンネル完成による北陸本線の開通で杉津線は廃線となり、現在、生活・産業道路として利用されている。
                        南越前町

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