(浦安) - 八橋 - (赤崎) (訪問日: 2019/04/28)
ここのところ仕事が忙しくて、過去のツーリング記録を書き込めませんでしたが、徐々に再開します。
閑話休題。
赤崎駅から東へ赤崎道の駅までは国道9号がバイパスで結んでますが、ここは海岸線の旧道で港町をトロトロ走るのが趣があります。(写真を撮るのも忘れるほどまったり走れますから)
海岸線から国道9号に戻ったとこにある道の駅で海産物をお土産に買って、ここからは国道を進んで八橋駅前交差点を南に入ると、電機工場の奥に駅前広場を備えた八橋駅があります。「山陰本線の八橋駅」という漢字の字面だけを見ると京都にあるのかと思ってしまいますが、ここの読みは「やばし」で昔は陣屋のあった場所だそうです。(といっても京菓子の八ッ橋由来の地名といえば、知立八橋村ですけどね)
大きなペンション風の駅舎に見えますが、この建物は八橋ふれあいセンターで駅の待合室は右手の一部屋分です。駐車場はふれあいセンターの前に4,5台分を駐車か、駐輪場は建屋の右手に屋根付きで35台分。食堂売店はないですが、北の海岸線にかけては海水浴場もあって、何らかの店舗がありそうな様子。
待合室内には時刻表やベンチ、トイレがあり、飲料自販機は建屋外に設置。無人駅なので改札はありませんが、ラッチだけは古い木製でもしかしたら建て替え前のを残しているのかもしれません。
ホームから振り返った改札口
ホームは1面1線の棒状駅でホーム長は228歩。下はホーム上の待合所と赤碕駅方面の風景。
こちらはふれあいセンターからホームに登ってくる斜道と深浦方面。
自動券売機は下の写真の背後にあります。
建物財産票はホーム上待合所にありましたが、記銘が消えていてただのアクリル板です。(堀込をしてないタイプだったらしい)
ふれあいセンターに掲示してあった旧駅舎の写真。海水浴場への臨時駅から出発したにしては、結構立派な駅舎だったようです。
ここは中世には八橋城が、江戸時代は陣屋があって東伯の中心だったらしく、東隣の現深浦駅の位置まで旧八橋町だったらしい。だから今の深浦駅が開業時は八橋駅と呼ばれていたのではないですかねえ。(御来屋駅と名和駅の関係とか、山陰本線の駅名にはややこしいところが多いなあ)
山陰本線:沿線-名和・御来屋の地名と駅名 - tkmov(バイクとローカル線と)
町指定史跡 八橋城跡 (昭和49年5月1日指定)
この城山は山陰線の開通により分断されたが八橋城跡である。中世、行松氏の居城で大江場とも号した。
大永四年(1524年)ここを攻略した尼子経久は城番として吉田左京亮を置いて伯耆支配の拠点とした。その後、尼子氏を滅ぼした毛利氏は杉原重盛に城を守らせた。天正年間に入り織田氏と対決するようになると、八橋城は山陰での毛利勢の中心拠点として重要視され、城の整備がすすめられた。「伯耆民談記」によれば東に大手を構え、本丸と二の丸があり、周囲に堀を巡らせていた。豊臣治下では南条氏が領有したが、関ヶ原の合戦後の徳川治下で一時期、中村氏、市塙氏が封ぜられた。
元和三年(1617年)池田光政が鳥取藩主になったとき一藩一城製で廃城となる。寛永九年(1632年)池田光仲入国後、津田氏が八橋を領有し、以後明治維新まで陣屋を置いて治めた。
津田氏の菩提寺体玄寺(南西200m)の西丘陵上に津田家の墓所がある。雄大な墓碑十一基が往時を偲ばせている。
平成十六年9月
琴浦町教育委員会
下は駅の西隣にある古い木造校舎に見える水産加工場か酒蔵(地図だと醸造所のようですけど)。屋根が白く塗装されているのは日射予防のためか。
駅の南の蔵付きのお宅。このあたりの海沿いの民家は屋根棟先に鯱をのせた、鯱地帯です。