(訪問日: 2019/04/28)
名和駅のホームに「後醍醐天皇御着船所」という碑がありましたが、実際の場所はもう少し御来屋駅に寄ったところにある御来屋漁港にあります。位置的にはちょうど名和駅と御来屋駅の中間ですが、たぶん後醍醐天皇に味方した名和氏の本拠地が名和町で、そこに出来た名和駅に紹介の碑が建てられたんだと思います。
後醍醐天皇が元弘の乱で隠岐に配流された後、隠岐を脱出して再興を果たした故事は有名ですが、まずは「後醍醐天皇御腰掛岩」と御製和歌の碑が、ちょうど漁港の真ん中にあります。太平記に「伯耆の国名和湊に着にけり」とある所です。
そして、港から一本山側に入った街道筋には「元弘帝御着船所」を示す石碑があります。崩し字が分からないので、安政三年建立の銘しか読めないのが情けない。とはいえ、幕末には元弘の乱の印象がよほど強かったのか、元弘帝と呼ばれていたのですね。
隠岐との連絡港といえば島根半島の七類港が主だと思うし、伯耆でも主な港は他にも淀江、赤崎も有るのですが、太平記を読むと「伯耆の国へ漕もどる商人舟の有けるを」見つけて、「出雲・伯耆の間に、何くにてもさりぬべからんずる泊へ、急ぎ御舟を着てをろし進せよ。」と言っているところからすると、たまたまこの港に引き上げる船に便乗したという事らしい。でも、上陸した地の名和長年が味方して船上山で挙兵という歴史を見ると、実際のところは名和氏の手引きだったような気もしますけど、物語としては偶然を演出しているというところでしょうかね。
今にして名和駅の写真を見返せば、海岸から登ってくる駅前の道の先には名和長年を祀る名和神社があって、あの急坂は神社への参道と見えます。それに名和駅と御来屋駅の間がやたらと近いなと思っていたけど、名和神社と後醍醐帝史跡へのアクセス駅と考えれば納得できそう。名和神社自体が明治初年に鳥取県から別格官幣社に推薦されて改築されたものだそうだし、名和駅が最初は仮停車場だったという事からも、そういう想像をしてしまいます。*1
そういう意味では、「後醍醐天皇御着船所」の案内は名和駅に有るべきなのでしょう。
山陰本線:名和駅 (なわ) - tkmov(バイクとローカル線と)