柏原駅前には旧中山道が通り、柏原宿の街並みが残っています。江戸時代は、木曽、揖斐、長良川から琵琶湖へ抜ける中継路として栄えたところです。道路探索という意味ではこういう旧街道も辿ってみたいのですが、現有鉄道と違って旧街道は事前調査しないとなかなか現地では辿れないし、たまたま出会った部分を探索することになってしまいます。
柏原宿の西端の一里塚。碑の建っているところからすると橋のたもとの樹が一里塚にみえますが、その奥の小塚が復元された一里塚です。
こちらが復元された一里塚
(復元)柏原一里塚
一里塚は、旅人の里標(みちのり)の目安・駕篭・馬の乗り賃の目安と旅人の休息場所として作られた。
慶長九年(1604)、徳川家康の命をうけ、秀忠はまず東海道と中山道・北陸道での一里塚築造に着手した。そして奉行には永井弥右衛門白元・本多佐太夫光重を任命、江戸は町年寄の樽屋藤左衛門・奈良屋市衛門、街道沿いでは天領は代官、私領は領主に工事参加の沙汰が出された。工事現場の総監督はすべて大久保長安が担当した。
一里塚の規模は、五間(9メートル)四方に盛土して、一本または複数本の木が植えられた。おもに榎が選ばれた。成長が早く根が深く広く張って塚が崩れにくい利点から採用された。
柏原一里塚は、江戸日本橋から数えて百十五番目で、柏原宿内の西見附近くに街道を挟んで北塚と南塚があった。(両塚とも現存しない。)
北塚は、街道沿いに北側で、愛宕社参道の石段東側(現仲井町集会所)の場所にあった。
南塚は、街道を横切る接近した二筋の川のため、やむを得ず東側のの川岸で街道より奥まった所に築かれた。(現在では、大幅な河川工事が行われたので、この地点から東寄りの河床の位置になる。) なお、江戸時代刊行の道中記等を見ると、両塚とも三本の榎が描かれている。
東山道と九里半街道
(古道東山道の道筋)
東山道は、横河駅があった梓を中山道と同じ道で東へ進み、長沢を過ぎ、ここ北畠具行卿墓参道入口のある谷間で、中山道と別れ山越えする。徳源院のある清滝へ降り、右へ折れ、成菩提院裏山の北側を東進する。
JR野瀬(山)の踏切に至り、再び中山道と合流して、県境長久寺へと向かう。(九里半街道)
中山道関ヶ原宿と番場宿の間は、九里半街道とも呼ばれた。
木曽・長良・揖斐三川の水運荷物は、牧田川養老三湊に陸揚げされ、関ヶ原宿から中山道に入り番場宿で、船積の米原湊道へ進む。
牧田から米原湊までの工程は九里半あった。関ヶ原・今須・柏原・醒ヶ井・番場の五宿は、この積荷で、六、七軒と問屋場が多かった。
ところで、柏原宿ではベンガラで赤く飾った旧家が目立ちます。これはここだけではなく、米原付近までの街道筋の特徴なのですが、その理由は醒ヶ井駅の近くで明らかになります。