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バイクでローカル線を巡るという、少し変なブログ

山陰本線:沿線-戸田柿本神社

(戸田小浜) - - (飯浦)               (訪問日: 2017/08/27)

戸田小浜駅の横に柿本神社の鳥居が建っていたので、社殿はすぐ近くにあるかと思いきや、駅から1kmほど山に入った先にあります。駅から東に少し移って、小川沿いに遡行する感じです。

由緒書きに拠れば、ここが柿本人麿の生誕地で、益田市街地の死没地には高津柿本神社があるとの事。高津の方は近くを通ったのに行きそびれてしまいました。そういえば波子駅ちかくの国道9号、峠越えの所にも柿本人麿の顕彰碑が建っていたのを思うと、「石見といえば人麿」というのがこのあたりのコンセンサスなんでしょう。

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戸田柿本神社
 戸田柿本神社の祭神は柿本人麿です。人麿は、天武・持統・文武天皇の治世(674~707)に活躍した「万葉集」の代表的歌人で、この地は、人麿生誕の地と言われています。
 戸田東光山(あさひ山)にあり、宝永7年(1710)津和野藩主亀井茲親が創建、文化14年(1817)神社火災で神殿や神像を焼失、文政5年(1822)亀井茲尚が神社再建に合わせ、津和野藩御用彫刻師大島松渓に命じ、ご神像と七体像をつくらせて寄進、奉納しました。
 境内上段には、本殿・通殿・拝殿があり、下段には、社務所・宝物庫・通夜殿があります。上段には、「筆柿」といって、筆の穂のような小さな実のなる柿の木があり、当社のご神木となっています。
 「戸田柿本人麿神社明細帳」によると、「人麿、後年老いて故郷に帰り、高角鴨山に卒す。後、戸田村に社を建て、人麿を祀るに、そもそも人麿は語家というこの家にて共生す。語家方は本姓は綾部氏なるか。人麿に由縁ある筆柿の古木あり」と書かれています。
 「綾部氏家系」によると、大和に住んでいた綾部家は、柿本氏に仕えていましたが、後年柿本氏の支族が石見に下った時、これに従って下向し美濃郡小野に代々語家として住みつきました。のち柿本某が語家の女を寵愛して、柿本人麿が生まれたといわれています。
 また、「柿本人丸旧記」には、「我は父母もなし、知る所もなし。ただ和歌の道のみ知れり」と言って、柿の木の下に童形の姿で出現したという伝承もあります。
 人麿は、幼少の頃から詩歌や学芸に秀で、才徳兼備でした。その当時よく遊んだという小野谷の中腹には、鎌の先で歌を彫ったという伝承岩や、近くには人麿の足跡とされる窪みがある大岩などがあります。

 

 

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戸田柿本神社由緒記
 祭神は正一位柿本朝臣人麿であります。人麿公は今からおよそ千三百年前、天武、持統、文武の三天皇につかえ、宮廷歌人として令名が高く、万葉集に数多くの長歌、短歌を遺しています。そのうち「妻と別れて京に上りくる歌」「臨死(みまか)らんとする時自ら傷みて作る歌」は石見の国と人麿との深い由縁を物語っています。
わけても「万葉集」の「石見の海 打歌の山の木の際よりわが振る袖を妹見つらむか」の「打歌の山」が古くから益田市中垣内町の大道山とされ、その北西の戸田町は生誕地、北東の高津町は死没地と伝えられています。
 柿本社の宮司綾部家は四十九代続いている旧家ですが、その庭前の柿の木のもとに、祭神は七歳の童児となって孝徳天皇即位九年に天降ったと古記にあります。同家には人麿のお墓が現存しています。
 社殿は神亀年代に創建され、学問、産業、疾病除厄の神様で、津和野亀井藩主をはじめ古来地方民の尊崇厚いところであります。
  記
一、建造物 本殿 権現造り  文政五年四月再建
      拝殿 妻破風   木造り明治二十九年再建、組み物の彫刻は西航そのもの、見事である。
      宝庫 社務所   大正十三年建立
         神楽殿   明治三十五年増築
二、御神体 柿本人麿木彫座像 ほかに人麿童子像、付帯像計七体は益田市指定文化財、台座の動物浮かし彫りは妙技である。作者は津和野藩士大島常一(文政五年)
三、宝物  柿本従三位人麿記、人麿旧記、柿本集、筆柿古木の根など多数
      綾部家には近世古文書の所蔵が多い、なお境内には神木筆柿がある。
四、例大祭 四月十八日    新年祭   春季
  八朔祭 九月一日     新穀感謝祭 秋季

  昭和五十六年十一月吉日
    益田ロータリークラブ建立