tkmov(バイクとローカル線と)

バイクでローカル線を巡るという、少し変なブログ

宇野線:沿線-前潟新田

(早島) - - (久々原)          (訪問日; 2016/09/17)

宇野線児島湾の干拓地の周囲、昔の海岸線に沿って大きく迂回するので、妹尾から久々原へは趣向を変えて干拓地の中を用水路に沿って走ってみました。

干拓地新田の風景は、用水路と白壁の蔵、焼杉板壁の家並。それから所々にある微高地には墓地。

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干拓地を走るとこういう墓地を所々で見ますが、結構な数の墓石がかたまっています。写真に写っているだけでも概算で80基くらいに見えますので、ここには100余りがありそう。広島あたりの農家の家付き墓ではだいたい5~10基くらいですから、集落10~20軒分の集合墓地と考えれば、概ね数は合いそうに思えます。そういえば岩手内陸の古い開墾地でもこういう集合墓地があったのを思い出しました。あちらは墓石の代わりに卒塔婆になるんですけど。集団入植した開墾地・干拓地で共通するものがあるという事でしょうか。 

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上の墓地横の用水路水門にあった説明板。

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 前潟村絵図
 前潟新田の開発は寛文七年(1667)、早島東西村々の総意によってはじめられ幾多の困難を乗り越えて延宝七年(1679)に完成した。完成した新田は、庭瀬の戸川本家の強い指導によりその半分を帯江分とすることとなり、前潟新田は早島・帯江の領域の入り組むところとなった。享保10年(1725)の記録を見ると早島分33町6反3畝25歩、帯江分33町3反5畝16歩とあり、前潟新田は合わせて約67町の広さであったことが分かる。
 しかし、慢性的な水不足のために作物は思うように稔らず、人々は宮崎村の唐戸を弁財天まで下げ古田の余水が新田に落ち込むようにしたり、弁財天の南に新田への水廻し川を掘り抜いたりして用水の確保に努めた。
そうした努力の結果、正徳5年(1715)に初めての検地が行われ、前潟新田は豊かな稔りをもたらす美田となった。汐止めの完成から実に40年余り後のことである。
 この絵図は、江戸時代後期文化文政期に描かれたものと思われ、帯江領の新田の所有者等に記載されており、新田を縦横に走る用水は、その姿を今にとどめている。
          早島町教育委員会